新・改革通信 NO.141 (平成30年8月20日)渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流(序)

宗門に大きな衝撃を与えた渡邉慈済住職の離脱
 平成4年10月17日、平塚・大経寺の渡邉慈済住職が宗門を離脱し、翌18日に、法主・日顕に「諌暁の書」を送付した。
 この大経寺離脱の一報は宗内に大きな衝撃を与えた。
 なぜなら、渡邉慈済住職の父は、渡邉日容(慈海)師で、戦前は宗門の「庶務部長」、戦後には「宗務総監」を務めている。
 阿部日顕法主と政子夫人の結婚式の仲人でもあった。
 また、住職夫人の父は土浦・本妙寺、姫路・仏恩寺の住職を務めた早瀬義顕氏で、夫人と早瀬日如法主は、いとこの関係になる。
 戦前から宗門の中枢にいて、本山を支えて来た”名家”が離脱したのだから、宗内僧侶の多くが耳を疑った。
 さらに、渡邉慈済住職は早瀬日如法主と同世代で、若い頃は「雲済寛」の三羽ガラスとして宗内では有名であった。
 「雲済寛」の雲は菅野慈雲氏、寛は早瀬義寛(日如)氏である。
 ゆえに、離脱を知った早瀬義寛氏(当時、庶務部長)は驚いて、「一体、何があったんだ。何か聞いてないか。理由が知りたい」と、福島・開蓮寺の住職だった子息の道粛氏に電話をかけてきたという。


歴史の”生き証人”であった渡邉慈済住職
 渡邉住職が如何に宗門の歴史を知る”生き証人”であったか、その著書『日蓮正宗落日の真因』から引用する。
 平成11年、私は、出家して満50年を迎えた。
 戦後間もない昭和24年、日昇上人が猊下としておられた頃だったが、大石寺塔中の寂日坊の住職をしていた父(渡邉慈海師)のもとで、出家得度の儀式を行なった。
 以来五十年、感慨は尽きないが、この歳月を一口で言い表すとなると、「激変の五十年」ということになろう。(中略)
 思えば、この間、私は宗門で起きたさまざまな事件に直接かかわってきた。
 不思議といえば本当に不思議なことだが、昭和27年の立宗七百年祭における「狸祭り事件」。小説『人間革命』第六巻に詳細に記されているが、この時、証人として立ち会った「所化小僧」とは私である。
 昭和33年3月の大講堂落成慶祝登山会中に起きた「的場事件」。
 酒に酔って逃げ隠れてしまった所化頭の的場正順氏を探しだし、立ち会いを命ぜられたのも私である。(中略)
 また、日昇上人が隠居されるにあたり、次の法主を日淳上人にするために、寂日坊の私の父のもとにこっそり根回しに来られたこと。
 大学匠である堀日亨上人に仕えることができ、僧侶のあり方や宗門の歴史、学会のことについて細々と教えていただくなど、貴重な経験もしている。
 この他、渡邉住職は本山の登山係や渉外主任、『富士年表』の作成委員などを務めており、貴重な証言が多い。
 一人でも多くの宗内僧侶に宗門の歴史を知ってもらうために、その著書などを紹介していきたい。
 歴史を学ぶことは、単に過去を学ぶことではなく、今と未来への智慧の源泉となるからだ。
 ゆえに、宗門の未来を考えるためには、まず、歴史を知る必要がある。
 渡邉慈済住職の証言に当時の宗門の状況を補足しながら、「本山編」と「末寺編」に分けて、配信していく。

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