新・改革通信 NO.147 (平成30年9月25日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・末寺編(1)

戦後の末寺は貧しく、大学の入学金も払えなかった
 今の宗門からは想像できないかもしれないが、終戦(昭和20年)後の末寺はどこも貧乏のどん底だったという。以下、渡邉慈済住職の証言である。
 私は、昭和25年3月、県立富士高校を無事に卒業し、すぐに立正大学を受験しようとしました。しかし、在京の寺院はほとんど終戦復興に進む途中で、貧乏のどんぞこ生活をしており、ほとんど現在、在勤している所化小僧さんでいっぱいで、新しい所化小僧を置く余裕が無かったのです。
 私の父(渡邉慈海氏)は、総本山寂日坊の住職をしていましたが、貧乏生活をつづけて、大学に入学しても入学金も払えない状態でした。その時、妙光寺住職・中島日彰能化から、「来年(昭和26年)は、所化さんが一人いなくなるから、妙光寺に在勤出来るよ!」と連絡が入ったのです。
 私は喜んで、一年余りの間、アルバイトでもして入学金を貯めようと思いました。そして、富士宮市教育委員をされている富士宮の奨信閣(現・法明寺)の住職をしている秋田慈舟氏の紹介で富士宮市立第二中学校の代用教員として就職できることが出来ました。
(手記より)
 大学の入学金を払うために、1年間、アルバイトをする。今の本山の所化小僧には、信じ難いことだろう。そのような苦労をしているからこそ、渡邉住職は宗門を復興させた創価学会への恩に報いる道を選んだのである。


千世帯の檀家がいた品川・妙光寺が貧しかった理由は?
 渡邉住職が在勤した東京の品川にある妙光寺には、蛇窪(へびくぼ)講、三ツ木講、大平講、独一講、統一講、目白講、本門講の7つの法華講があり、全体で千世帯の檀家がいたという。しかし、妙光寺は決して裕福ではなかった。その理由は何か?
 普通、一般の寺では、檀家が五百世帯ぐらいあり、墓地があれば、食べていかれるといわれている。しかし、妙光寺は約千世帯あり、墓もあったが、生活は楽ではなかった。何故かといえば、当時は、法華講の人たちが寺に来る時に御供養を持参するという習慣がまったくなかったからである。寺に参詣して、御宝前に置かれていた”火打ち石”をカチカチとやって、賽銭代わりに小銭を置いていくこともあったが、その額は本当に微々たるものだった。
 寺を守るための「護法会」も作られ、各人の資力によって、百口、十口、五口、一口と分かれ、一口十円として会費を出すことになっていたが、「五口では多すぎる」「うちは一口しかできない」と、嫌々ながら納めていたので、12分の1くらいしか集まらなかった。(『日蓮正宗落日の真因』より)
 この他、寺の収入には、しきみや仏具類の売り上げがあった。しきみは、所化の担当で、寺の墓地にあったしきみの木から切り取って、藁でしばって束にして売ったという。この仕事は、学校へ行く前の朝の仕事の一つであったが、「夏はよかったが、冬は手がかじかんで辛いものだった」と、渡邉住職は述懐している。(続く)

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