新改革通信 第160号 令和3年9月6日 宗教改革の闘争・学会の「御書」発刊(1)

新改革通信 第160号 令和3年9月6日

身延派の「御遺文集」を使うことに抵抗がなかった宗門




「御書全集」が刊行されるまで、
日蓮宗の「御遺文集」を使っていた宗門僧侶
 本年9月12日は日蓮大聖人が「竜の口の法難」で「発迹顕本」されて満750年となる。この意義深き時に、創価学会が昭和27年4月28日、立宗700年の佳節に『日蓮大聖人御書全集』を発刊した意義を明らかにしたい。
いよいよ11月18日の学会創立記念日に『日蓮大聖人御書全集 新版』が発刊されるが、昭和27年に「御書全集」が発刊されるまで、宗門には独自の御書がなかった。宗門の僧侶は日蓮宗の霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』や平楽寺版『昭和新修 日蓮聖人遺文全集』などを使っていた。


なぜ、宗門に御書がなかったのか?
 大石寺は56世法主・日応の頃は「日蓮宗富士派」であった(1912年、明治45年まで)。当時の機関誌の「法之道」に「日蓮宗富士派管長 大石日應」とある。ゆえに日蓮宗の「御遺文集」を使うことに抵抗がなかったのであろう。
そもそも大石寺には日蓮宗の「御遺文集」を超える御書を作る学識のある僧は堀上人以外におらず、また財力もなかった。昭和14年の文部省宗教局調査によると日蓮正宗の寺院数は75カ寺、教師数が52名。日蓮宗各派の合計は4,962カ寺、4,451名の教師であった。宗門がいかに弱小であったか、この数字で明らかだ。


御本尊を掲載し、「出家功徳御書」を偽書とした
「御書新集」は普及せず
 実は宗内僧侶の佐藤慈豊が昭和4年に『日蓮大聖人御書新集』を発刊したが、普及しなかった。この「御書新集」の扉の次のページに、当時の法主・60世日開の「御書刊行成就の攸」と書かれた御本尊と52世法主・日霑の御本尊が印刷されていた。当時の宗門は身延派と同じように御本尊をモノとして扱っていたのだ。
堀上人が「其の成果の予期に大に反したのに驚愕した」(学会版「御書全集」序)という言葉を残されているが、佐藤慈豊は一生成仏抄や法華初心成仏抄、四菩薩造立抄、当体義抄等を偽書と断じて収録せず、三大秘法抄を勝手に編集して載せていた。
また、出家功徳御書について、同書の「高祖遺文録眞偽決畧評」で「傳へて云く聖筆にあらず。余云く文勢 大に他と異なれり」と文の勢いがなく、真筆ではないと述べている。この「出家功徳御書」は法主が得度式で読むもので、宗門的にはこの御書を偽書扱いできない。
有名な話であるが、「御書真偽検討委員会」の委員であった永栄義親が、平成2年3月、「この御書は偽書だろうが、猊下が得度式でこの御書を読む以上、『真書』とするしかない」と本音を語っていた。(続く)

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