新・改革通信 NO.52 (2006.04.27) 「開宣大法要」は、「日顕宗」立宗の宣言
日顕は平成十四年、宗旨建立七百五十年の記念法要として、三月二十八日に「開宣大法要」を行った。その際、日顕は過去の宗門において四月二十八日のみに宗旨建立会を行ってきたことについて次のように述べている。
「我が宗門では、他門の如く宗旨建立の意義を四月の一辺倒とする考えとは異なり、『日蓮正宗要義』ならびに『日蓮大聖人正伝』等において、三月二十八日は大聖人様の御内証の上から宗旨建立の意義を述べております。しかしながら具体的な説法は四月二十八日に行われたという記述をしてまいりました。これらのことも、やはり宗門で明治以降長く使用していた他門の『縮冊御遺文』や『御書全集』が「三月」の御書のすべてを「四月」に改変したことに、少なからず影響を受けていたことを改めて感ずるものであります」(大白法 平成十四年四月十六日号)
日顕は「我が宗門では、他門の如く宗旨建立の意義を四月の一辺倒とする考えとは異なり」などといかにも過去の宗門の歴史について述べているような言い方をしているが、この中に出てくる『日蓮正宗要義』と『日蓮大聖人正伝』は日顕の著作である。すなわち、この「我が宗門」とは日顕のことであり、日顕は露骨に自説を褒め称え、四月二十八日に法要を行ってきた先師日達法主を批判している。そして、「『御書全集』が「三月」の御書のすべてを「四月」に改変した」と『御書全集』の編纂にかかわった五十九世日亨法主をも批判しているのだ。これは、明らかに日蓮正宗そのものを批判していることに他ならず、この日顕の発言はまさに「日顕宗」の立宗を宣言したものである。
これこそ、〃自分は誰よりも偉大である〃という慢心から狂った日顕の象徴的な姿である。日顕は創価学会と和合して宗門を未曾有の発展に導いた日達法主と、近代の大学匠であった日亨法主に異常ともいえる敵愾心を持っているが、これはコンプレックスの裏返しだ。日顕は何の功績も無く、誰からも自分の教学を認められないという劣等感から逃れるため、正本堂などの日達法主の功績を悉く破壊し、「平成新編日蓮大聖人御書」を作り上げた。この日顕の行為はまさに先師の恩を踏みにじる許しがたいものである。
釈尊は「後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して」(薬王品)と予言した。それは釈尊の大願でもあった。そして、大聖人は「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」(御書全集七二〇頁)と宣言された。これは大聖人の誓願であるが、門下一同の誓願でもあったはずだ。しかし、大聖人滅後、この誓願を果たした者は一体、誰であったか。それは、創価学会の三代会長にほかならない。
戦時中に軍部の権力に屈した宗門は、初代牧口先生らに神札を受けるように迫った。しかし牧口先生はそれを拒絶し、正法護持の道を貫いた。その結果、牧口先生ら幹部一同は投獄され、牧口先生は獄死し、生きて出獄した第二代会長・戸田先生が創価学会を再建し、七十五万世帯というかつてない大折伏を達成された。そして、第三代会長・池田先生も投獄という権力からの迫害を歯牙にもかけず、世界広宣流布という未曾有の折伏を行じ、釈尊と大聖人の誓願を実現されたのである。
その池田名誉会長を日顕は「C作戦」という謀略で切り捨てようとした。大聖人の誓願を体現された池田名誉会長を切り捨てることは、恩を重んぜられた大聖人に違背するだけでなく、大聖人の誓願を破る師敵対の蛮行である。
我々が改革同盟を結成し、日顕に退座を求めたのは、そうしなければ我々も与同罪になり、大聖人に違背することになるからだ。また、それが創価学会の三代会長に対する報恩の道であると信じているからだ。三代会長の死身弘法の戦いがなければ今の宗門はなく、我々が僧として存在することもなかったはずである。その恩に報いることは人間として当然の行為である。
では、早瀬日如はどうか。今年も三月二十八日に御影堂で「開宣法要」が行われた。これは早瀬が〃自分は日顕宗二祖である〃と内外に宣言したことを意味する。早瀬は、八木総監や阿部信彰庶務部長ら「阿部ファミリー体制」の傀儡でしかない。早瀬には阿部ファミリーに歯向かう勇気などなく、臆病風に吹かれて、傀儡であると知りつつも自ら日顕宗二祖の道を選んだのだ。
早瀬日如は大願寺住職時代に、宗門の誰よりも創価学会の世話になっている。池田名誉会長に一番、恩返しをしなければならないのは早瀬であろう。しかし、早瀬も日顕と同じように「C作戦」に加担し、恩を仇で返す行為に出た。早瀬は第六天の魔王・日顕の眷属となり果てて、今また、日顕宗二祖として魔の血脈を受け継いだのだった。
我々改革同盟員は、これからも日顕・日如の悪行を破折し、日顕宗の邪義を責め続け、大聖人の破邪顕正の誓願を受け継いでいくことを、ここに宣言するものである。(編集部)