同盟通信 NO.104 (2004.5.19)

NO.104(2004.5.19) 

=日顕法主が法華講に年間三億円の供養徴収を命じてから一カ月半。末寺のうめき声が聞こえるようだ。多くの末寺は、対抗策もなく自坊の収入減を案じ、暗澹たる日々を送っている。その一方、日顕法主は松濤で政子の誕生会を開いた。招かれたのは一族だけ。使った費用は百万円にも及ぶ。一体、この明暗は何なのか。もはや旧聞に属する話だが、日顕法主は平成三年一月六日、宗内の僧侶を前に「結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候」との御文を引き、「粥をすすってでも」と泣いて見せた。その涙が意味したものは何だったのか。供養激減、新寺建立等、学会との絶縁により招来する不安な心象を表明したものと解説する向きもあった。

 ところが、あれから十三年、「粥をすすっている」のは誰あろう、ただでさえ少ない供養を本山に持って行かれる末寺の住職と寺族だ。=

 去る三月二十九日、恐妻家の阿部日顕法主は、七十七歳の誕生日を迎えた古女房・政子の誕生会を行った。場所は政子の住む東京・渋谷区松濤の「大石寺東京出張所」と称する大邸宅である。

 会食の内容は、「寿司」。しかし、出前を取ったのではない。日顕法主は、都内の超高級寿司店から、二人の板前とともに、食材から飲み物まで、この邸宅に運ばせた。つまり、寿司店を一軒丸ごと「出前」させ、目の前で握らせ、それを頬ばったのだ。その費用は、わずか二、三時間で百万円は下るまい。

 東京の一等地にあるこの邸宅の内実は、全ての設備が贅の限りを尽くしているが、中でも厨房は度はずれている。その総額は数千万円。とても家庭の主婦に使いこなせる代物ではない。いわゆる「プロ仕様」、日顕法主が通ってきた高級料亭、あるいは高級割烹旅館並の設備だ。たとえば冷蔵庫はもちろん業務用。あまりの大きさに、ドアを通らず、いったん解体して、また部屋の中で組み立て直したという逸話もある。今回も、この厨房に、一流の板前を呼びつけて豪華な日本料理を作らせ、寿司を握らせたというのだから尋常な贅沢ではない。

 この日、松濤の大邸宅には、日顕法主、老妻・政子、馬鹿息子・信彰とその家族、品のかけらもない娘の百合子をはじめ、日顕法主にとっては孫にあたる正教(信彰の息子)一家や、百合子の娘の一家まで十数人が勢揃いした。日顕法主・政子にとって「曾孫」にあたる子供たちまで含めた「阿部一族」が一同に集まったのだ。

 自分の家に板前ごと寿司屋を呼び込んで目の前で高級食材を握らせる。こんな贅沢を一生の間に経験できる人間が、一億二千万人の日本国民の中に一体、何人いるだろうか。  ところが、日顕法主の曾孫たちは、年端もいかないのに、「おばあちゃん、トロ食べたい」「おじいちゃん、ウニほしい」などと言っては、超高級な寿司を、当たり前のような顔で食い散らかしているのだ。

 今の宗門に、二百力寺を超える援助寺院。それらの住職と寺族は、普通の寿司屋はおろか、子供を連れて百円均一の回転寿司に行くことさえままならぬ経済状態だ。回転寿司どころか、日々の生活のやりくりに目を回している。子供の学費はもちろん、御宝前のシキミ代の支払いにすら頭を痛めている極貧寺院もある。

 しかし、百億円を超す個人資産をため込んでいると噂される日顕法主、政子は、そんな末寺を尻目に、臆面もなく、狂ったように贅沢三味を繰り返している。その姿には、もはや怒りを通り越して、心根の醜さに恐れすら感じる。「阿部一族』だけが、超高級食材をむさぼり食う、その卑しさは、日顕法主が「餓鬼道」に堕している証明と言える。

 宗祖は「けかち(飢渇)は申すばかりなし米一合もうらず餓死しぬべし」(富木殿御書)という、極限的な飢餓状態になられた時も、大旦那の富木殿にさえ、卸供養の催促をされることもなく、それどころか、「結句は[人にな(成)りて日本国に流浪すべきみ(身)にて候」と、厳たる覚悟を述べられた。  日顕法主自身、学会を切った直後、この御文を引用して、「粥をすすっても頑張る」などと泣いて見せた。ところが、粥をすするどころか、この宗祖の御生涯とは正反対に、都内の一等地に大邸宅を構え、そこに寿司屋を呼びつけて一族で舌鼓を打っているのが日顕法主だ。

 その日顕法主が、先日、細々と年金暮らしをしている世帯も多い法華講員に対し、毎月一口五百円以上(「以上」を強調している)、年間三億円の供養徴収を決めたのは三月二十七日の講頭会のことだった。寿司屋ごと出前させての政子の誕生会は、そのわずか二日後だ!

 法華講員に「一口五百円」の供養を問答無用で工面させる一方で、日顕ファミリーだけで超高級な寿司が、年端もいかない、日顕法主の曾孫たちの口の中に次々と消えていく。こんな理不尽な話はない。この現暗は、何なのか。もはや、貧富、不公平などという生易しい言葉で評せるものではない。  この不況下、法華講員の出せる供養も決まっている。その一つの「器」を本山と末寺が取り合っている、それが今の宗門の実態だ。「まるで椅子取りゲームだ」との宗門人の言もうなずける。

 しかも、法華講員の中には、「本山から分配されるのだから、本山に供養すればいい」という意識の者も少なくない。「これ以上、『供養、供養』と言うと、あからさまに嫌な顔をされる」と嘆く住職。危機意識は募るが、減る一方の供養に打つ手がない末寺は途方に暮れている。

 間もなく行われる寺族同心会。悲喜こもごもの複雑な心鏡で集まる寺族だが、この数年は「悲喜こもごも」の「悲」の面もちばかりが目立つ。「毎年、同じ格好で、もう着ていく服がない」という理由で出席を取りやめている住職夫人も一人や二人ではない。「オホホ……」という、あの冷たい薄笑いを浮かべながら、松濤の大邸宅に近い高級ブティックや、都内の高級店で金に糸目をつけぬ買い物三昧の政子には、この貧しさなど想像もつくまい。

 世問の諺に、「仏頼んで地獄に堕ちる』―信頼していた人に裏切られて、ひどい結果になること―と言うが、表では本仏気取りで儀式を取り仕切り、陰では阿部一族とその取り巻きだけで信徒の供養を湯水の如く散財している食法餓鬼・日顕法主に従えば、その結果が、「法主頼んで地獄に堕ちる」ことになるのは間違いない。

(憂宗護法同盟員より)

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