新・改革通信 NO.35 (2005.12.08)歴史は真実を語る(4)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(4)
私怨と私欲で固められた、日開・日顕―謀略の血脈

三、大正十三年八月財務ニ関スル事務引継ヲ完了セルニモ不拘、今ニ至リ食言シタル事。

これは代替法要の四カ月後のことである。日柱法主が退座する際に作成された「契約書」に、
「御慰勞トシテ金五千四百三十圓を奉呈スベシ 但シ内金二千四百三十圓ハ崎尾前理事々務引繼ノ際ニ生ジタル財務部及内事部ノ缺損ヲ補償スルコト」
とある。

事務引継ぎの中で、金銭的な問題が発生し、日柱法主に二千四百三十円の支払いを迫ったことがわかる。当時の宗会の追及が徹底していたことが伺える。法主誤謬などとは、彼らは微塵も考えていなかったに違いない。

四、阿部法運ニ対シ強迫ヲ加ヘ僧階降下ヲ強要シ之ヲ聴許シタルコト。

さて、興味深いのがこの項目である。この「誓約書」になぜ、阿部の名が出てくるのか。

日顕の父である阿部法運は、この宗会の約四カ月前に日柱法主より処分され、総務の職よりはずされただけではなく、能化より降格されていた。当時、能化の地位を失うということは管長候補者としての資格を失うことを意味していた。この阿部の処分は日蓮宗系の学者との問答で、阿部が失態を演じたことが原因であった。

要するに阿部は日柱法主に対して恨みを抱いて報復しようとし、宗会がそれを支援したの である。当時の宗会に対して阿部が強い影響力を持っていた証拠である。

日顕は平成四年八月の教師講習会で「日柱上人が深くお考え遊ばされてですね。やはりこれはわしが退こうと、こう思われたということですよ」と述べたが、これは父親を庇うための虚言である。

「川辺メモ」で明らかになったように、日顕は「Gは話にならない」「人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ」と日達法主を馬鹿にしていた。その背景には日達法主が日顕を信用せずに遠ざけていた事実がある。

日開が日柱法主を恨んでいたように、日顕は日達法主を恨んでいた。だから、その報復として日達法主の時代に建立された建築物を悉く破壊していったのである。

日開は宗会を使って日柱を追い落とし、まんまと六十世の地位を手に入れた。日顕は日達法主の突然の逝去を利用して猊座を盗みとった。謀略の血脈が日開から日顕に脈々と流れていることだけは間違いない。(続く)

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