新・改革通信 NO.37 (2005.12.09)歴史は真実を語る(6)

歴史は真実を語る。日顕らは法主弾劾者の末裔(6)
「大御本尊以外に相承を認める必要はない」と談じたのは誰か

大正十四年十二月四日、日柱法主擁護派の信徒四人が、本山の寂日坊で水谷秀道(後の六十一世日隆法主)ら反日柱派僧侶の代表五人と問答し、その内容が『正邪の鏡』に公開された。これがその文章である。答えているのが僧侶側である。


問、法義に照し、宗制に鑑みて僧徒が法主を排斥することが絶対に出来ない様に思ふ。法主の真意に基かずに、法主の位地が代ることになると、それは血脈相承が断絶することを意味する。さすれば
一、宗門の生命が断絶され
二、六百年来の光輝ある宗門の歴史が抹殺され
三、信心の大道が切断され
ることになる。これ大事の中の第一の大事でなくて何んであろう。もし甚深なる法義があるなら説示して頂きたい。

答、管長は法主ではない。従来管長を法主と崇めたのは全くの誤である。開山上人の二十六ケ条に
時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事
とある。殊にまた、聖訓に
但し師なりとも誤ある者をば捨つべし。又捨ざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべき也
とある。之等の教訓によると管長は法主に非るは勿論である。従って衆議に基いて排斥して一向に差支がない。

問、然らば、管長は僧徒の衆議によりて左右さるるのみで、其所(そこ)には大聖人の仏智を認められないことになる。即ち管長が本仏の勅によって任免さるるのでなく、ただ単に僧徒のみにより動かされる事になり、嫡々相承の大義が失はれ、全く民主主義による米国大統領の如きものになるが如何。

答、戒壇の大御本尊さへ御在しませば、それで充分である。それ以外に相承を認むる必要もなければ、また管長の真意を顧みる要もない。


〃僧徒が法主を排斥することが絶対に出来ない〃、〃法主を批判することは血脈相承が断絶すること〃。この日柱法主擁護派の信徒たちの主張は、「邪義破折班」のそれとそっくりである。

問答の相手をした五人の僧侶の中に、後の六十一世日隆法主がいる。もちろん、日顕の父・日開も反日柱派だから、同じ見解であったということになる。その僧侶たちが、「管長は法主ではない」「排斥して一向に差支がない」「戒壇の大御本尊以外に相承を認める必要がない」と言い切っているのである。

「邪義破折班」の論によれば、日開以降の歴代法主は、血脈否定の大謗法者になるではないか。破折班の根拠、総崩れである。(続く)

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