新・改革通信 NO.44 (2006.1.17) 妄想に取り憑かれた日顕に食いつぶされる宗門(1)

阿部一族が生き残るために末寺を犠牲にした日顕の残虐さ
平成十八年の幕が明けた。宗門は本年を「決起の年」と名付けたが、所詮、創価学会の真似事である。日顕は池田名誉会長に強烈なコンプレックスを抱いている。そして、その反動で何でも池田名誉会長の真似をしようとする。創価大学の真似をして法教院を作り、今度は隠居して、名誉職の真似をしようとしている。ただし、隠居は名誉職ではない。辞書によれば、「官を辞し、世間での立場を退き、また家督を譲って世の中から遠ざかって暮らすこと」(小学館・国語大辞典)とある。「同盟通信」(一一二号)で引用されている日寛上人の「人の隠居の時と臨終と全く同じ」との言葉の通り、日顕は一切の権利を早瀬に譲り、実質的に臨終を迎えたのだから、表に出てくる必要などない。
ところが日顕は毎月、十日間は本山に来るという。目的は明らかで、早瀬の監視である。無言の圧力を加えようとしているのだ。

日顕が恐れているのは、早瀬の発言である。日顕の業績を否定する発言、日顕の路線を変更する発言がないかどうか、監視しているのだ。

ここまで日顕を突き動かしているものは何か?それは阿部一族を頂点とした宗門を構築したいという妄想である。その妄想を実現するために、日顕は謀略「C作戦」を実行した。その結果、宗門の三分の一の末寺が自活できない困窮状態に陥っている。しかし、妄想に没頭している日顕には決して現状を省みることができない。偏執狂と同じである。

言い方を変えると、日顕は自分の妄想を実現するために宗内僧侶を犠牲にしたのである。まるで、レーニンが内戦でブルジョア市民を盾にしたように。貴族出身のレーニンはブルジョア市民を犠牲にすることを厭わなかった。日顕も同じである。日開法主の血を引く阿部一族が生き残るためには末寺が犠牲になっても何とも思わない。これが独裁者に共通する冷酷さである。
妄想に取り憑かれている日顕は、用意周到に阿部一族の血を残すための準備をしている。息子の信彰を庶務部長にして、自分の一番弟子の八木を総監に据えた。これにより、阿部ファミリーで宗門の要所を押さえたことになる。

もっと大事なことがある。早瀬は庶務部長、総監となり法主となった。つまり、日顕は信彰が法主となる道筋をつけたのだ。早瀬と同じように信彰がやがて総監になり、法主になる。早瀬は日顕に利用されているだけだ。(続く)

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