新・改革通信 NO.46 (2006.01.19) 妄想に取り憑かれた日顕に食いつぶされる宗門(3)

「早瀬になにかあれば…」と期待をしている日顕の取り巻き
日顕が隠居することが決まった時に、日顕の取り巻きの一人である、ある住職は次のように言った。
「次の御法主上人に万が一のことがあっても御隠尊から相承することができるから安心だ」
なるほど、理屈は通っている。しかし、これでは早瀬に何かあることを期待しているような言い方だ。だが、これこそ、日顕の望んでいることである。

もし、早瀬が相承をせずに亡くなることがあれば、日顕は相承を断絶させてはならないという大義のもと、堂々と信彰に相承することができる。

そうなれば、阿部家から日開、日顕、信彰と三代続いて法主を出すことができる。さらに孫の正教と続けば、四代だ。これこそ、日顕と政子の妄想の極みである。阿部家は宗門に君臨することができるのだ。

冷静に考えれば、無能で感情的な信彰や落ちこぼれの正教が法主になれば、宗門は滅茶苦茶になるだろう。バカ信彰についていけないと多くの住職が離脱をしたり、分裂劇が起きるかもしれない。

しかし、妄想に取り憑かれている日顕には、宗門がどうなるかは二の次だ。少なくとも自分の弟子たちは信彰を守るに違いない、自分の弟子さえいればよい。むしろ達師の弟子を一掃できると楽観しているかもしれない。

しかし、現実は日顕が考えているよりも深刻である。宗門の壇徒の多くは年配者である。青年層はごくわずかだ。今どき、檀家制度のような封建的体質の宗門に、魅力を感じる青年などいるはずがない。それでなくとも日本は少子化という厳しい時代を迎える。

あと十年もすれば、宗門の信徒数は激減するであろう。増えるのは無任所教師だけだ。近い将来、住職よりも無任所教師の方が多くなる。

財政問題も悪化する。無用の長物でしかない法教院のせいで、莫大な費用が飛んでいく。そもそも、法教院を存続させるためには毎年、得度者を取らなければならないのだから、宗門は自滅に向かって加速しているようなものだ。

このまま行けば、真っ先に切り捨てられるのが援助寺院だ。信徒の少ない末寺は閉鎖され、末寺が統廃合される時が目の前に迫っている。

たとえ、宗門が分裂を間逃れたとしても、その存続は厳しい。すべては日顕の妄想が原因である。(続く)

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