新・改革通信 NO.54 (2006.06.15) 「伽藍仏教」と化した日顕宗の終焉(二)

供養を押し付け、信徒を蹂躙する出家の傲慢こそ一凶
破壊王日顕は登座して以来、本山の伽藍を〃壊しては作り直す〃という狂気じみた行為を繰り返した。そのたびに、日顕は「地震対策」を口実にしてきたが、本当の理由は違う。
日顕には血脈相承を受けた証拠がない。だから、日顕は本山の伽藍を破壊することによって、自分の力を誇示して宗内の批判を封じて来た。と同時に法主の地位を既成事実化しようと企んだ。
また、日顕が伽藍にこだわったのは、伽藍を作れば、自分の名を宗史に残せると考えたからだ。先師・日達法主の時代に建てられたものはすべて壊すつもりであったに違いない。そうすれば、日達法主の功績を事実上、なかったことにできる。日達法主の名前の上に自分の名を刻む。日顕にすれば、〃一挙両得〃の名案だったに違いない。

日顕が伽藍にこだわる理由はもう一つある。それは、信徒に多額の供養を出させることによって、宗門に帰属する意識を強化するためだ。
日顕のやり方は実にあくどい。僧俗差別を土台にして法主絶対の思想を吹き込んで、信徒を無力化させておいて、本山に行けば功徳がある、供養を出せば救われると教える。それを真に受けた信徒たちは、生活を切り詰めて供養に励む。しかし、それでも功徳がなければ、今度は〃信心が足りないからだ〃と信徒を責める。あげくの果てに、〃脱講したら、地獄に堕ちる〃と脅す。
やがて宗門の毒気を吸った信徒は正気を失ったように、宗門から離れられなくなり、供養を出し続ける。特に高額の供養をした者ほど、宗門に対する依存度が高くなり、深みにはまってしまう。日顕らはこのような人間の持つ弱さを利用して生きているのだ。

今回の「御供養趣意書」には「御影堂を、耐震を配慮して早期に大改修し、後代に悔いを残さぬようにすることは、平成の時代に生きる私たち僧俗の責務であります」とある。
彼らは都合の良い時にだけ、「私たち僧俗」と和合を強調する。しかし、彼らが言うところの「僧俗の責務」には、はっきりとした差別がある。〃僧侶の責務〃とは〃供養を集める責務〃であり、〃供養する責務〃ではない。あくまでも、〃供養するのは信徒の責務である〃というのが彼らの本音である。
次から次へと供養を押し付け、信徒を蹂躙する日顕・日如らの出家の傲慢さこそ、責められるべき一凶である。(続く)

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