新・改革通信 NO.58 (2006.06.19) 「伽藍仏教」と化した日顕宗の終焉(六)

信徒を見下す宗門は、やがて信徒から捨てられる
日蓮大聖人は「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」(御書全集 一三三七頁)、と仰せである。
釈尊、そして大聖人にとって重要であったことは、社会において、一人一人の人間が自立した主体者になりえるのか、それとも権力者、支配者によって利用される道具としての地位におとしめられるのかということであったに違いない。
だからこそ、大聖人ご自身が時の権力者に対して一歩も引かずに戦われて、自立した人間としての道を示され、社会の底辺にいた熱原の農民たちが弟子として死を恐れずにその道を貫いたのである。そしてその崇高な精神は創価学会の歴代会長に引き継がれている。
ところが、宗門は戦時中に軍部の責めを恐れ、戦争に加担しただけでなく、神札を受け、自ら権力者の道具と成り果てた。この宗門の体質は未だに変わらない。信徒のために宗門があるのではない。宗門のために信徒がいるというのが彼らの根本的な発想だ。彼らは信徒を、宗門を支える道具の地位におとしめている。

彼らが見せる信徒への優しさは偽りである。僧俗差別に染まっている坊主どもは、内心では信徒を見下している。たとえば、佐藤慈暢がいい例だ。佐藤は本教寺(大阪府豊中市)時代に寺の掃除などをしてくれた信徒に、婚礼でお供えとして供養された日本酒を渡していた。信徒は「良い住職だ」と思ったかもしれないが、実は、新しいものはとって置き、腐りかけた一番古いものから渡していたのだ。実に人をバカにした非礼な行為である。礼儀を知るものであれば、新しいものを渡すであろう。
かつて日顕は海外の小さな信徒組織を支援する際に、「あまり信徒を甘やかすな」と言っていた。信徒の供養で生きていながら、なぜ、こんな傲慢な言葉が出てくるのか。

宗門は今後も信徒を縛り付けるために、「三門の修復だ」「五重塔の改修だ」と際限なく、信徒に供養を強要していくであろう。彼らにとって、信心とは「僧侶を守ること」であり、信徒とは「僧侶の生活のために存在」でしかない。
しかし、そんな傲慢な行為がいつまでも続くはずがない。もうすでに日蓮正宗の信徒は供養することに疲れ切っている。創価学会の民衆自立の運動は宗門の信徒にも大きな影響を与え、それが脱講という形で実を結んでいる。宗門が信徒から見捨てられる日は近い。(終わり)

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