新・改革通信 NO.62 (2006.11.28) 「仏になる血脈」を体現した創価学会を破門し、 自ら宗教的「死」を選んだ日顕

「魂の独立記念日」は、日蓮仏法の人間主義が
開かれた人類救済の夜明けとなった
 今から十五年前の一九九一年(平成三年)十一月七日、日顕らは一方的に、創価学会に「解散勧告書」を送付してきた。そして、続けて、二十八日に「破門通告書」を送り、広宣流布の団体である創価学会を破門にするという、破和合の大罪を犯した。
 日顕は姑息にも、”創価学会という団体を破門にしたのであり、信徒は願い出れば日蓮正宗に帰属することができる”と、創価学会の師弟分断を目論んだ。しかし、師弟不二の道を貫く池田門下の信仰は微動だにせず、この一カ月後には、全世界の千六百二十五万人が署名した「退座要求書」が日顕に突きつけられたのである。
 
 熱原の弟子たちの不退転の信心が、日蓮大聖人の出世の本懐の機縁となったように、衣の権威と戦った創価学会により、日蓮仏法の本質である人間主義が宣揚され、世界広布の本格的な幕開けとなったのである。
 と同時に、日顕らの転倒した思考があらわになった。それは”僧侶は信徒のために存在する”という宗祖の精神を真っ向から否定する、という僧俗差別である。
 日蓮正宗は戦時中にも、保身のために信徒を切り捨てた。宗門は軍部の圧力を恐れ、神札の受け取りを拒否して投獄された牧口会長・戸田会長らの登山を禁止し、信徒除名に処したのである。
 宗門は”大御本尊を守るための苦汁の選択”というが、それは単なる言い訳に過ぎない。もし、宗門が不惜身命の覚悟で神札の受け取りを拒否していれば、必ず道が開かれたはずである。それが信心である。現に、宗祖日蓮大聖人御自身が竜の口の法難でそのことを証明されている。
 しかし、宗門にはそのような宗教的信念はなかった。つまり、宗門僧侶には御本尊に対する絶対の確信がなかったことになる。
 
 牧口会長と戸田会長は獄中においても折伏を行じられた。そして牧口会長は獄死され、その殉教、不惜身命の精神が今の創価学会の未曾有の興隆の源泉となった。そして、その信仰は池田第三代会長に受け継がれ、池田会長もまた、投獄という国家権力の横暴に屈せずに戦った。すなわち、日蓮仏法の命脈は創価学会の中に厳然と流れているということだ。
 いかなる理由であれ、宗門が、信徒を切り捨てたことは決して許されることではない。天台沙門と名乗って難を逃れようとした五老僧と本質的には同じで、宗門自ら日蓮仏法の命脈を断ち切ったと言っても過言ではない。
 創価学会の外護により、宗門は再生のチャンスを得た。しかし、それは全く外護に値するものではなかった。謗法を犯し、信徒を切り捨てた宗門は信心の血脈を失った”死に体”であった。創価学会と和合したからこそ、宗門は辛うじて信心の血脈につながることができたのである。それが真実の歴史である。我々は敢えて、そのことをここで表明し、歴史にとどめるものである。
 ところが日顕はその創価学会に対する大恩を忘れ、創価学会を破門に処した。日顕は自己の権威を守るために、戦時中に宗門が犯した”信徒を切り捨てる”という愚行をまた、繰り返した。
 それは広宣流布の道、民衆救済を放棄しただけではなく、日顕自らが信心の血脈を断ち切り、宗門の宗教的な死を選んだことを意味している。
 
 大聖人が大御本尊を顕したのは何のためか。大聖人は「一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに」(御書全集 一三三七頁)と仰せである。すなわち、御本尊により、万人に直接「仏になる血脈」を受けさせるためである。それこそが、大聖人の出世の本懐であったはずだ。
 しかし、「仏になる血脈」を得るためには欠かせない条件がある。それは御本尊に対する絶対の確信である。それを大聖人在世に証明したのが熱原の農民であった。
 そして、”御本尊に対する絶対の確信により仏になる血脈を受け継ぐ”という大聖人の本懐を現代に体現したのが創価学会である。創価学会の歴代会長、なかんずく、第三代池田会長により、大聖人が御本尊を顕した意義が現実として明確になったのである。
 
 そしてまた、御本尊があっても、信心の血脈・絶対の確信がなければ無益であることを逆に証明しているのが今の宗門である。
 本年八月二十四日、二十五日の両日にわたり、本山で日如体制下初の全国教師講習会が行われた。そこで、日如らは熱原の法難に触れ、”信教の自由が保障されている今日もっと折伏ができるはず”と指導している。
 時代が変わったから折伏ができるはずとは、何と浅はかな見方か。日如らには自身が不惜身命の信心に立つという決意などない。彼らにとって広宣流布は他人事である。”信徒に折伏させればいい”という発想が彼らの考えの底にある。
 また、その講習会の場で宗門は勤行の際に「地涌倍増・ 大結集を成就なさしめ給え」という新たな祈念項目を付け加えることを発表した。こういう小手先で折伏を進めようという幼稚な姿勢に、すでに宗門の敗北の姿が現れている。
 
 十一月二十八日は、創価学会にとっては「魂の独立記念日」であるが、我々改革同盟にとっては、更に宗教改革を決意する日である。それは、宗教的権威におもねる日本的風土の改革であると共に、僧侶は民衆に奉仕する存在であると、自らの姿勢を正す日でもある。そのために、日顕という一凶と戦うのである。(編集部)

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