新・改革通信 NO.80 (2007.12.25) 日蓮正宗の「再生」の道を放棄した日顕の大罪! 創価学会出現以前の宗門は、「死に体」だった(四) [日蓮正宗改革同盟]

 今でこそ、日蓮正宗の信徒は僧侶に絶対服従を強いられているが、かつては、信徒が法主の就任に対して、大きな影響力を持っていた。


檀信徒の宗会糾弾が、文部省を動かす
 日柱法主を擁護するために結成された「正法擁護会」は、同じく日柱派の東京の檀信徒たちと協力を始める。そして、新年早々、大正十五年一月十六日午後一時より、神田和泉橋倶楽部において、「全国檀徒大会」を開催した。彼らは、この大会で宗会の横暴を天下に訴えた。

この日蓮正宗の紛争を沈静化させるため、文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定。被選挙権者の資格は権僧正以上とされ、阿部法運は、僧階を降格されてから一年未満であったため、被選挙権者から除外された。

 その結果、被選挙権者は、日柱法主、堀慈琳(後の五十九世日亨法主)、有元廣賀(品川・妙光寺住職)、水谷秀道(後の六十一世日隆法主)の四名となった。

日柱法主が”相承拒否”
 ここから、事態はさらに深刻化していく。一月二十五日、日柱法主が、突如、『宣言』なるものを発表。そこには「不合理極まる辞職が原因となりて行はれる選挙に於て、日柱以外の何人が当選されたとしても、日柱は其人に対し、唯授一人の相承を相伝することが絶対に出来得べきものでない事を茲に宣言する」と、“相承拒否”という驚くべき内容が書いてあった。
警官立会いのもとで行われた管長選挙
 そのような事態の中、大正十五年二月十六日、管長選挙がおこなわれた。その模様を『静岡民友新聞』(大正十五年二月十六日付)が次のように報じている。

 屡報宗門の恥を天下にさらし、宗祖以来七百年の誇り、血脈相承も棄てゝ管長選挙に僧侶と壇信徒が対立して醜争をつづけている日蓮正宗大本山富士郡上野村、大石寺の管長選挙も今十六日を以て投票を終り明け十七日開票の筈だが、開票の結果は、壇信徒派擁立の土屋前管長の当選は到底覚束なく、僧侶派擁立の現管長事務扱、堀慈琳師の当選は疑ふ余地なき確実なものと観測されている。所轄大宮署では開票当日の大混乱を予測して官、私服の警官十余名特派し警戒に努める模様だ

 管長選挙の開票に警官十余名が動員され、日蓮正宗内の対立は世間の物笑いの種となった。新聞の予想通り、二月十七日午前九時五分より行われた開票の結果は、日亨上人の圧倒的な勝利で終わった。

前代未聞の警察の介入、文部省による調停
 ところが、この開票日に、また事件が起こる。大奥に大宮警察署の警部補が、数名の制服警官を伴ってあらわれた。

 日柱法主擁護派が、”日柱法主が辞表を書いたのは脅迫によるものだ”と、宗会議員、評議員総計二十一名を告訴したのである。

 その結果、翌十八日より関係者一同は、大宮署において取り調べを受けることになる。日蓮正宗の宗内抗争は、警察の介入という最悪の事態を迎えてしまった。

 大宮署の取り調べにより、前号で紹介したとおり、日柱法主に嫌がらせを行った二人の僧侶は、書類送検された。この他、十一名の僧侶が、日柱法主に対する脅迫の嫌疑をかけられた。その中には、早瀬日如の祖父、早瀬慈雄も含まれていた。

 『朝日新聞・静岡版』(二月二十六日付) 「大石寺事件送局 正法派は新管長の不認可を宗務局に運動」日蓮正宗の本山富士郡上野村大石寺土屋前管長脅迫事件は去る十七日以来大宮署において取調べを進めて居るが同寺宗務院の加藤慈仁(二二)及び同郡上野村蓮成寺川田米吉(二八)の両人が脅迫の事実を自白しその証拠もあがつて居るので二十四日一件書類を送局したが一方正法擁護派の田連(征)、中村、松本、藤原の四氏は去る二十日文部省に下村宗務局長を訪問し不合理な選挙により管長に当選した堀慈琳師の不認可を陳情し局長も之を諒としたる由送局納書に乗つた人々は左の如くである

 駿東郡浮島村本廣寺 水谷秀道(五三) 東京南品川妙光寺 有元廣賀(六〇) 大阪府堺市本俸 寺 小笠原慈聞(五二) 大石寺理境坊 相馬文覚(三八)同交成坊 下山廉琳(四九) 同寂日坊 中島虜政(五七) 同歓行坊 西川眞慶(五八) 同百貫坊 阪本要道(四六) 東京向島法道寺 早瀬慈雄(四八) 日蓮正宗横浜教会 松本諦雄(三六) 駿東郡浮島村蓮楽寺太田廣伯(五九)

 結局、この最悪の事態を治めたのは、文部省宗教局長による調停であった。この調停により事態は急変した。

 日柱法主は相承を行うことを表明し、三月八日午前〇時から、本山において日柱法主から日亨法主への血脈相承の儀が執りおこなわれた。そして、四月の十四日、十五日に、代替法要が催された。

 この宗門の混乱はここで終わったわけではなかった。このような事態が二転、三転して続くのは、当時の僧侶だけでなく、信徒も信仰を失っていたからであろう。(続く)

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