新・改革通信 NO.89 (2008.07.04) 池田名誉会長が「立正安国論」の御精神を実現。世界百九十二ヶ国へ流布。日顕の蛮行・正本堂破壊は八百万信徒の真心の破壊。民衆を愚弄するは、「立正安国」の「正義」に真っ向から背く第六天の魔の所為。

 明年、平成二十一年は、日蓮大聖人が『立正安国論』を幕府に上呈されて、かぞえで七百五十年目に当たる。
 宗門は”『立正安国論』正義顕揚七五〇年”と謳っているが、彼らの言う「正義」とは一体、何なのか? 
 プレ大会と称して、病人まで巻き込んで、無理やりに檀徒を集め、その陰で、自分たちは豪華なホテルに泊まって、檀徒の供養で高級料理に舌鼓をうつ。これが果たして、正義の姿なのか。
 大聖人が『立正安国論』に示されている正義とは、一切衆生を平等に幸福に導くための教えである。ゆえに、大聖人は『立正安国論』の御真筆において、国の漢字を書かれる場合に、「国構え」に「民」の字を多用されている。
 この字に、大聖人のどんな思いが込められているのであろうか。


民の目を開くために戦われた大聖人
 この「民」の起源は、「針で目をつぶされた奴隷」を意味しているという。「民」の最後の一画の斜めの線は、太古の象形文字で描かれた「ひとみを突く針」の名残であるというのだ。為政者が民衆を奴隷として使う時に、目をつぶして、自由を奪うという意味である。古来、権力者たちは、民の耳目を覆って真実を隠すことによって、民衆を支配してきたのである。
 その権力の道具と化していた民の「目」を開かれようとしたのが、大聖人である。大聖人は、民衆に正法を教え、平和社会を実現する主体者とするために、法難を覚悟で戦われたのである。


目覚めた民の力を恐れた権力者たち
 熱原の法難で、なぜ、平左衛門らは一介の農民達に対して、常軌を逸した拷問を加え、斬首まで行ったのか? 一体、彼らは何を恐れていたのか?
 それは、目をつぶした奴隷だと思っていた農民たちが、自らの意志で、権力者に立ち向かったからである。
 当時、有力御家人でさえ恐れていたといわれる平左衛門は、”農民など少し脅せばすぐにおとなしく自分に従う”と、高をくくっていたのであろう。ところが、熱原の農民たちは、蟇目の矢の拷問にも耐え、不退転の意志を貫いた。その姿を見て、平左衛門は、民の底力に恐れを感じると共に、”農民の分際で”と慢心から怒りを爆発させたのである。


信徒の目を塞ごうとした日顕ら
 宗門事件の本質も同じである。日顕らは、衣の権威や血脈という言葉を”民の目を潰す針”として使って来た。真実の法は法主しか解らない。僧侶は特別であり、檀徒はその僧侶の生活を支えるのが役目であると、信徒に教え込むことに、彼らは腐心してきたのだ。
 ところが、池田名誉会長と正法に目覚めた学会員は、けっして僧侶の奴隷となることはなかった。
 それがわかった日顕は、”池田名誉会長さえ、いなければ信徒を隷属させることができる”と考え、「C作戦」という謀略を図った。そして、平成四年七月四日の今日、池田名誉会長の信徒除名を行った。まさに現代における「斬首」である。
 しかし、創価学会員は微動だにせず、かえって師の仇を打たんと極悪日顕に対して、立ち向かっていった。同時に、シアトル裁判での日顕の出廷が決まり、日顕は満天下にその醜い姿をさらした。
 日顕はかつてない屈辱に、復讐の念を燃やし、自分の力を創価学会員にみせつけるため、正本堂の破壊を行った。


正本堂破壊は、民衆を愚弄した蛮行
 八百万人もの信徒が、血の滲むような思いで供養した、その真心を日顕は破壊したのである。民衆の純真なる信仰心を汲めぬ者が大聖人の弟子であろうはずがない。
 大聖人は「民」の字で立正安国の正義を示された。しかし、日顕は「民」を見下し、愚弄した。
仏智というものは、一般民衆がわかるはずがないんですから。したがって数から言うならば、ボンクラどもが千人、万人おるよりも、仏様一人のお考えのほうが正しいんです。(平成三年五月三十日 寺族同心会)
 すなわち、日顕にとって「民」は「ボンクラ」であるということだ。だからこそ、狂気と思える正本堂の破壊を行うことができたのだ。


政子のマンション疑惑でも檀徒の目を塞ごうとする日顕
 日顕は檀徒から絞り取るように供養を強要し、その陰で政子が二億円相当のマンションを所有していたことが発覚した。しかし、そのことは檀徒に一切知らされていない。今もって、檀徒は目を潰されたままなのである。
 法華経に説かれる僭聖増上慢の特徴である「人間を軽賤する」という行為は、民衆の目を潰して自立を阻む行為とも言えよう。”信徒は余計なことを知る必要などない”という、この日顕らの僧俗差別こそ、天魔の証である。


立正安国論の実践は創価学会のみ
 一方、日顕が破門した創価学会は、池田名誉会長のもと、世界百九十二ヶ国の一閻浮提に広宣流布をし、その勢いはとどまることを知らない。各国で信頼を勝ち取り、その国の繁栄と一人一人の幸福のため尽力している。まさに「立正安国」の理想的な実践の姿ではないか。(編集部)

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