新・改革通信 NO.111 (2011.10.17) 大聖人は「開眼の仏事」が天台宗を謗法と化したと破折 御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない! [日蓮正宗改革同盟]

信徒を脅すために「開眼」を強調し、
かえって本尊の意義を狂わせる宗門
大聖人の当時、「開眼」の儀式は僧侶の重要な「収入源」となっていた。そのため、どこの宗派も「真言」を用いて「開眼」の仏事を行っていた。

 「法華経」を依経とする天台宗も同じで、布施を取るために、教義的に謗法であるはずの「真言」を用いて、「開眼」の仏事を行い、そのことが、天台宗が謗法に染まった一因でもあった。

 そのことを大聖人は「報恩抄」で次のように仰せだ。
「天台宗の人人画像木像の開眼の仏事をねらはんがために日本一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」(御書三〇九頁)

 すなわち、天台宗の人々は信徒から布施を取ることに躍起になって「開眼の仏事」を行い、その結果、謗法の宗と化してしまった。

今の宗門も原理は同じだ。宗門事件が起こるまでは、本尊の「開眼」など、宗内で誰も耳にしなかった。ところが、創価学会が本尊授与を始めた途端に、「開眼が必要」と言いだした。彼らは、信徒を脅すために「開眼」という言葉を利用し、かえって御本尊の意義を狂わせてしまっている。

御本尊は開眼する側であり、開眼されるものではない
御書の中には、御本尊の開眼については全く述べられていない。なぜなら、大聖人は、
「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり」(同一〇六〇頁)
「今末法に入って、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり」(同八四一頁)
と仰せであり、御本尊自体が、仏の眼目であり、魂そのものであるからである。ゆえに、他宗の仏像のような開眼の儀式などは一切、必要ない。

 宗門は『木絵二像開眼之事』等を引用して、”本尊には開眼が必要”と躍起になっているが、大聖人が仰せになっているのは、「木絵の開眼は法華経による」ということだ。

 すなわち、「法華経」とは「御本尊」のことであり、あくまでも御本尊は木絵を開眼する側であり、他のものに開眼されるべきものではない。

ところが、今の宗門の言い分では、法主が御本尊を開眼する立場になり、御本尊、大聖人よりも上になってしまう。何という慢心であろうか。

「明鏡たる本尊」に仲介者は必要ない
 大聖人は「明鏡たる本尊」(御書七六三頁)と仰せである。衆生の胸中の御本尊を映し出す「明鏡」であってこそ、仏界涌現という即身成仏の功徳を生ずる。もし、「開眼」の儀式を言うのなら、その人の強盛な信心唱題こそ、「開眼」である。

 肝心なことは、大聖人の教えに従う正しい信心であり、そこに、「法主の許可」「開眼」という仲介など必要ない。

日達法主の時代は、豊島区・法道院から御本尊を発送
 昭和三十年代に授与されていた日寛上人の御形木御本尊は、東京・池袋の法道院で印刷し、全国の末寺に直接、発送されていた。宗門が言うような、本山での法主の開眼など御形木御本尊については全く行われていなかった。それは日達法主の時代まで続いていた。日顕の代になり、本山に御本尊を扱う「第三課」という部署が出来た。しかし、御本尊の印刷は、外部の印刷会社が行っている。

 そして印刷会社が運んで来た御本尊を僧侶が印刷の状態を確認して箱に詰め、各末寺に運送会社を使って発送している。その際に、「開眼」などの特別な儀式などしていない。これが歴史的事実である。(続く)

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