新・改革通信 NO.115 (2011.10.25) 本山よりも財力のあった東京の末寺が御本尊を印刷 大石寺が本山らしくなったのは創価学会のおかげ[日蓮正宗改革同盟]

東京の末寺の方が財力があり、
影響力もあったので御本尊を印刷
創価学会が誕生する前は、大石寺は財政的に窮乏していた。ところが、東京の寺院はある程度の檀家がいて、収入が安定していた。東京の末寺は財力があったから、御本尊を印刷できたのである。

だから、多くの住職は、田舎の本山に赴任するよりも、東京の末寺の住職になることが夢であった。
財力があったということは宗内に対する影響力も強く、本山は東京の末寺がすることに対して、いちいち口をだすことはなかった。

そして、品川の妙光寺は五十五世日布法主、豊島区の法道院は五十六世日応法主、同じく豊島区の常在寺は五十七世日正法主と、それぞれ有縁の法主の御形木本尊を印刷して、信徒に授与していた。

当時の様子を「さながら群雄割拠の感があった」とある老僧が語っていた。

末寺得度から本山得度へ
昔は、本尊のことだけでなく、宗内の様々なことが末寺中心であった。葬儀のやり方など様々な化儀はその寺の住職によって異なり、後年、化儀を統一するために『教師必携』が作られた。

その背景にあったのは、末寺での得度制度であった。今、本山で行われている年分得度制度(十二歳からの得度)が出来たのは、日達法主の時代で、それ以前は末寺の住職のもとで出家する末寺得度であった。

ここから、自然に有力寺院を中心とした派閥が出来上がり、多くの弟子を持つ東京の寺院は影響力を持つようになったのである。

ところが創価学会が誕生し、信徒の急激な増加により、僧侶を増やす必要が出てきた。そこで、日達法主の時代より、本山で一括して得度する年分得度制度が出来上がった。

この年分得度制度により、僧侶はすべて当代の法主の弟子となり、末寺の派閥が解消されていったのだ。

本山の窮乏を救うために始まった登山会
 戦後、財政的に窮乏していた本山は、その打開策として、富士宮市や観光協会と話し合い、本山の観光地化を進めていた。

 そのことを知った戸田会長は、大石寺が他宗のように宗教を売り物にする観光地となることを恐れて月例登山を提案した。

そして、昭和二十七年から創価学会の月例登山が始まり、その御供養で本山は運営が賄えるようになった。

 今、宗門は”登山をしないと成仏しない”などと言っているが、かつては登山会などなく、御開扉を受けることが出来たのは、一部の僧侶でしかなかった。

創価学会の誕生により、本山らしくなってきた大石寺
このように、創価学会が始めた登山会の供養などで本山は財政的に豊かになり、また、本山での得度制度が確立して本山在勤の僧侶も増え、ようやく大石寺は本山らしくなってきたのである。

明治三十七年の政府調査によると、身延派の寺院数は、三六八五。住職数は二九八二。信徒数は約百八万人。これに対して、大石寺の寺院数は、八十七。住職数は四十七。無住の寺が半分ちかくあったことになる。そして信徒数は、約二万八千四百人。日蓮正宗がいかに弱小教団であったか明白だ。創価学会がなければ、宗門の存続は難しかったのである。(続く)

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