新・改革通信 NO.119 (2011.11.05)大石寺の観光地化を阻止するために始まった登山会(2) 日達法主が「登山会で初めて本山が活気づいてきた」と

 どのような経緯をたどって登山会が始まったのか、引き続き、渡辺慈済住職の証言を掲載する。

渡辺慈済住職の証言

本山の観光地化を防いだのは戸田会長
 戸田先生は当時、自分の事業が行き詰まり、学会の理事長職も辞めるという窮地にあったが、この観光地化の話を聞いて大変に驚かれ、学会による登山会の実施を計画されたのである。この登山会のお陰で、大石寺は信心を根本とした信徒によって賑わう総本山へと、興隆発展の道を歩むことができたのである。

 当時、庶務部長だった日達上人も、後に、登山会がどれほどありがたかったか、我々にしみじみ語られたことがある。(以下、日達法主の話)

日達法主の話(昭和四十八年八月の教師講習会)
「この総本山がそれほどの農地を解放したことによって、今までは安定して生活をしておりましたが、なかなかそれがしにくくなった。僧侶も塔中住職等みな山林を開墾して、そこへ芋やキビ、トウモロコシ等を植えて生活をしていったのでございます」

「全国の信徒からいくらかでも燈明料をあげていただいて、本山の威儀を保とうとその当時の宗務当局が考えまして、全国の法華講の信者の主な方に本山に来ていただいて相談いたしました。ところが年に五十円の醵金(きょきん)をしてほしいということを申し出ましたところ、それがほとんど不可能であった」

「それに対して収支決算をして、収支決算を明らかにしなければ出すことができない、坊さんは何に使うかわからないということを法華講の信者が申されたのであります」

「それでもその五十円の醵金はできなかったのでございます。そして、その会はついに流会となってしまった」

「あとで東京におきまして一ケ月か二ケ月たったと思いますが、妙光寺を借りてやはり東京を中心とした法華講ならびに学会戸田先生等に来ていただいて打ち合わせをしましたが、それも充分な話にいかなくて、ついに戸田先生はそれならば登山会をつくろうというので、登山会を毎月一回、当時一回でしたが、登山会をすることになって初めて本山は活気づいてきたのでございます」

「ことに池田会長の時代になって昨年正本堂を建立せられ、ここに一千万登山という大目標をもって登山会をせられたのでございます。これらのことは単なる登山会ということがすなわち大石寺をそれだけ裕福にし、大石寺を大きくした」

法華講がご供養を拒否
(引き続き、渡辺住職の証言)

 法華講が総本山を外護するための御供養を拒否したこと、さらに、本山を謗法まみれにさせる観光地化の愚策から、本当に大石寺を守るために、戸田先生の赤誠の一念によって開始されたのが登山会であった。

 その戸田先生の心を池田先生が受け継ぎ、大石寺は想像もしなかったような素晴らしい総本山になったのである。

 ところが日顕は、その大恩を忘れて、学会を切り捨てたのだ。
 
 そして今では、大石寺に池上本門寺の貫主一行を迎え、高野日海氏に蓮葉庵で歓待させたり(平成七年六月六日)、次々と身延の坊主らを招き入れている。まったく狂気の沙汰としか言いようがない。

 これは、五老僧と義絶し、身延離山して正義を守られた日興上人への大違背である。日昇上人、日淳上人、そして日達上人が、この日顕の大悪行をご覧になれば、どれほど嘆かれ、厳しく弾呵されるかと思うのである。(続く)

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