新・改革通信 NO.120 (2011.11.7) 大石寺の観光地化を阻止するために始まった登山会(3) 創価学会の登山会は信心を学ぶ「研修会」

本山を救ったのは法華講ではなく、創価学会
 二回にわたって、どのような経緯をたどって登山会が始まったのか、渡辺慈済住職の証言と日達法主の話を紹介した。

 その証言等でわかった通り、今、宗門が行っている登山会は、経済的に窮乏していた大石寺を創価学会が援助するために始まったものである。

 しかも、その当時、法華講は本山への供養を拒否したのだ。それを見かねて、戸田会長が月例登山を提案した。

 創価学会の登山会により、大石寺の観光地化を阻止することもできた。すなわち、戸田会長の英断により、謗法厳戒の信心を守ることもできたのだ。

 この歴史から分かるように、登山は信徒の善意で始まったものであり、「登山をしないと成仏しない」などという脅し文句は、まったく筋の通らないものである。

創価学会の登山会はあくまでも信心の研修会
 昔から登山会は「阿仏房の精神を学ぶもの」と言われてきた。阿仏房が、大聖人様をひたすらお慕い申し上げ、純真な信心をもって、指導を求める、その精神を学ぶということである。そういう意味では、登山会は信心の姿勢を学ぶ研修会であった。

 かつての登山会では、必ず、「指導会」があり、体験発表なども行われた。信心の指導会があったからこそ、その登山会を信心の原点にして励んでいこうと、決意できたのである。

身延に詣でないのと同じように、
謗法の大石寺にはいかないのが正しい信心
 宗門は「阿仏房」のように登山するのが、正しい信心だと言う。その理屈で言うならば、阿仏房を真似て「身延」に行くことにも意義があることになるではないか。しかし、宗門では、身延は謗法の寺だから参詣しないと言う。

 今、創価学会が大石寺に行かないのも同じ理由である。日顕らは信徒の供養で放蕩を繰り返し、「C作戦」という謀略で創価学会の破壊を企み、そしてとうとう、一方的に創価学会を破門にした。その暴挙は「五逆罪」のひとつである「破和合」の大罪である。

 大罪を犯した大石寺に行き、供養することは「謗法与同」である。だから、たとえ大聖が住まわれていた身延であっても詣でないように、敢えて大石寺に行かないことが正しい信心の姿である。

登山しなくても「遥拝」すれば、意義は同じはず
 以前にも説明した通り、もともと、大御本尊は広宣流布の時まで「秘蔵」されるとして、特別に「内拝」するのが、御開扉である。大御本尊は「秘蔵」されているので、水も供えないし、樒も飾らない。

 「内拝」はあくまでも非公式なものであり、特例である。だから、通常は「遥拝」となり、大御本尊は遠くから拝するものである。

 ところが、宗門は「御開扉を受けないと成仏できない」などと、大御本尊を、信徒を脅すための手段にしている。これこそ、宗祖の御精神に背く大謗法である。
 
 創価学会の大折伏により、いまや、世界中、日本の反対側にももちろん会員がいる。「日本に来ないと成仏できない」などという信仰では、かえって大聖人の御心に反するであろう。「心こそ大切」であり、距離や場所ではないはずだ。(終わり)

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