新・改革通信 NO.152 (平成30年10月5日) 渡邉慈済住職の証言―日蓮正宗と創価学会の初期の交流・相承編(2)

文部省宗教局が管長選挙を決定
 宗門の”お家騒動”が世間の注目を浴びたのが58世日柱法主の代である。大正14年11月20日に58世日柱法主が宗会から不信任決議と辞職勧告を突き付けられた。同時に日柱法主への嫌がらせも行われ、18日の夜半、客殿で勤行中の日柱法主に対して、ピストルのような爆発音をさせて威嚇したり、客殿に向かって瓦や石を投げつけた僧侶がいた。当時の『朝日新聞・静岡版』(大正15年2月20日付)にその事件についての記事が掲載された。
「大石寺の脅迫事件 取調大いに進行」

 日蓮正宗大石寺管長脅迫事件の取調べは大いに進行し大石寺の最高幹部の僧侶十三名は夫々大宮署に召喚十八日深更まで取調べ 身柄は一時放還されたが大宮署では有力なる証拠を握つたらしく更に十九日には柚野村蓮正寺住職河田正平(二六)を召喚取調べたがその結果昨年十一月十八日夜半前管長土屋日柱師が本殿にて勤行中ピストルやうの爆音をさせたり本殿に向つて瓦石を投げつけたことなどを自供したので 共犯関係にある大石寺宗務院加藤慈忍(二二)をも同日午後引致し 教さ関係について取調べ中で事件は各方面に波及するや大石寺問題は遂に破裂訴訟ざたとなるようである

 結局、日柱法主は22日に辞表を書いたが、その後、日柱法主を擁護する「正法擁護会」が「全国檀徒大会」を開催し、宗会の横暴を天下に訴えた。この日蓮正宗の紛争を沈静化させるため、文部省宗教局は、選挙によって管長候補者を選出することを決定したのである。この経緯は別の機会に説明する。
 
 引き続き、渡邉住職の証言を紹介する。
 猊下が塔中坊にお忍びで来られることは異例のことである。夜中に明かりがついたので私も何事かと思った。後で父に聞くと、「次の猊下は信乗院さん(堀米能化)にしたい。塔中も、宗会も一致協力してほしいと話されたんだよ」と教えてくれた。
 こうした根回しによって、かつては宗内を二分して上へ下への抗争を繰り返していた相承問題も、高野、中島、大石の3氏が管長選挙立候補の辞退を申し出て、平穏裡に、学会との関係を大事にされた堀米日淳上人の代へと移行したのである。
 それから3年後の昭和34年11月、今度は日淳上人が猊座を譲られるにあたり、日達上人に命じられたことも「僧俗一致」であった。(『日蓮正宗落日の真因』より)
 日淳上人の時代に、実質的に管長選挙は終わり、日淳上人は後継者として日達上人を指名して猊座を譲ったのである。
 そして、日達上人は登座後、初めて発せられた「訓諭」(昭和35年1月日)のなかで「冀(ねがわ)クバ日淳上人ノ僧俗一致ノ言葉ヲ帯シテ」と述べ、学会と僧俗一致していくことを大事にされたのである。そして、その日淳上人・日達上人の言葉に違背したのが今の宗門である。(以上)

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