新改革通信 第162号 令和3年9月8日 宗教改革の闘争・学会の「御書」発刊(3)

立宗七百年は学会の本格的な宗教改革の始まり


御書を読んでいたのは、一部の僧侶と学者だけ
今では、学会のメンバーは普通に御書を学んでいるが、創価学会が出現する前の宗門では、身延派も含めて、大聖人の御遺文を読んでいたのは一部の僧侶と研究者だけであった。
日本の仏教は大乗仏教であるが、その体質は小乗部派の僧侶中心の仏教に近い。檀家制度の弊害で、経を唱え、法を説くのは僧侶の仕事であるという認識が人々に広まっている。
本山である大石寺の旧信徒であっても勤行さえできない。ましてや教学意識は皆無である。“信徒は布施をする者”という考えが根深く残っている。


昭和27年、立宗七百年記念に学会は御書を発刊し
大石寺は伽藍の整備を優先
昭和27年の立宗七百年の記念事業として、宗門は「日蓮正宗聖典」の刊行を進めていたが、内容は、法華経の要文や御書十大部、大石寺関係文書を集めたもので、これは大聖人の教えを学ぶのに日蓮宗の遺文集を使う前提になっている。
これでは学会員が大聖人の教えを学ぼうとしても、他宗の御遺文集を使わなければならない状況が続いてしまう。ゆえに戸田先生は「御書」の出版を急いだのである。
それに対して、宗門が力を入れたのは、梵鐘の鋳造であった。戦時中に軍部に梵鐘を供出してしまったからである。宗門には独自の御書を刊行するという意識はなかったのだ。


「御書」発刊は“僧侶中心の仏教”に対する
宗教改革の闘いの始まり
日蓮宗は立宗七百年を記念して「昭和定本日蓮上人遺文」の発刊を進めていた。ゆえに戸田先生は宗門に対して「また身延に後れをとってしまうぞ!」と嘆き、聖教新聞の「寸鉄」で宗門の意識の低さを痛烈に批判している。

一、立宗七百年がくる。大聖人様はどんな事を喜ばれるであろう。なに一つ梵鐘を作れば良い、火事が起こってから半鐘を作って間に合うか。
一、軍部に脅されて梵鐘を取り上げられ、軍部が消えたら又作り出す。奥さんの前でヘイヘイして、居なくなればつまみ食いする女中のような坊主だ。
(昭和26年7月10日)
一、御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね。
(昭和26年7月20日)

広宣流布のために、人々に日蓮仏法を教えるために「御書」を発刊する。それはまさに日本の“僧侶中心の仏教”に対する宗教改革の闘いの始まりであったのだ。(続く)

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