日蓮正宗問題研究3 – 信徒欺く法主絶対の虚構
(1)「絶対崇拝」強いる法主の表と裏

本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません。

貴殿らは、「血脈を否定しているのではない。阿部日顕という個人がおかしいと言っているのだ」と言い返すでしょう。しかし、それは、大きな間違いであります。大聖人の仏智による御指南は、血脈不法の御法主上人によってなされるのであって、私どもは、そこに信伏随従するのみであります。

 上記の文は、いずれも平成3年7月31日に、宗門の能化(長老僧侶)名で創価学会の幹部あてに送付した公式書面の抜粋です。この文が意味するところは、宗祖大聖人が顕された法門は、余すところなく歴代法主に相承されており、大御本尊と法主を絶対の根本として信仰しなければならない。したがって、法主の個人や人格がどうであろうと、絶対的に信伏随従しなければならない、ということであります。一口にいえば「法主絶対」であり、これが日顕法主に率いられた現宗門の「根本教義」なのであります。

 日蓮正宗においては、従来から唯授一人の血脈相承を根本としてきました。しかし、それが、日顕法主の代になると、ことさら法主の権威、権力を絶対化し、宗内の僧侶、信徒に対し、その絶対権威に無条件の服従を強いるようになってきたのです。

 しかも、この「法主絶対」主義は、制度上も完璧に確立されています。他宗派では、信仰面の最高位で教義の裁定権を持つ「法主」と、宗内行政の長たる「管長」の分離、さらに宗議会の独自性が保証されているところも多いようです。しかし、本宗の宗規には「管長は、法主の職にある者をもって充てる」(第13条)とあり、法主と管長の権力は阿部日顕氏一人に集中しております。また、「宗会の招集、停会及び解散」(第15条)権も管長が持ち、更には、全国の信徒が参詣する総本山大石寺の住職・代表役員も兼ねており、財政面も含め、文字通り、日蓮正宗の絶対者として君臨している状態であります。

 に、日顕法主は、昭和54年の登座から今日に至る14年間の間に「宗制宗規」を16回も変更し、“独裁”を合法化してきました。特に露骨だったのは、平成2年12月27日の“改正”で、信徒処分について「言論、文書をもって、管長を批判し、または誹毀讒謗したとき」(第229条5項)と、明かに自分に従わない信徒の切り捨てを意図した強引な変更でありました。また、平成3年7月6日の宗規改悪では、反体制的な僧侶を弾圧しやすくするため、新たに「奪階」処分をも受け、どんな高僧でも法主に逆らえば、たちどころに一番最下位の「沙弥」(宗門では出家したばかりの中学生待遇)に降ろせるようにしたのであります。このようにして、日顕法主の超独裁体制が確立していきました。

 問題は、このように信仰的にも、制度的にも強固に確立された法主の絶対性に対し、当の日顕法主個人の資質ということであります。“絶対的権力は、絶対的に腐敗する”との言をまつまでもなく、このような三位一体の権力集中体制が、独裁と横暴と堕落に直結していくことは、ある意味では必然でありますが、信徒に法を説く宗教者にとって、堕落という問題は、法と信徒に対する背信であり、絶対にあってはならないことであります。

 しかし、信心を失った日顕法主は現代の仏でも何でもなく、俗界の欲望に身を焦がす、哀れな権力の亡者に過ぎなかったのです。