日蓮正宗問題研究7 – 平成の宗教改革を知るための「資料集」2
(1)仏事・常識のウソ

 戒名、法事、塔婆など、現在、仏事として僧侶が執り行っている様々な儀式、形式というものが、仏教発祥時から伝わる古来のものであると考えている人は以外と多いのではないでしょうか。しかしながら、歴史をひもといていくと、これまで当たり前と思ってきた仏事の多くが、以外と歴史の浅いものであったり、あるいは、仏教の教えには全くなかったものであることに驚かされます。

 例えば、戒名です。お葬式の際、故人の戒名料の高さに驚いた経験をお持ちの方も多いでしょう。これまでの“常識”では、戒名は死んだ人に与えるものと考えられてきました。

 亡くなった人に戒名をつけることはいいことのようにも思えます。ところが、この戒名、鎌倉時代までさかのぼると、日蓮大聖人においてもそうですが、「死んだ人」に戒名を与えた例はありません。戒名は、もともと僧侶が出家する時に、戒律を守って修行に励むことを誓う意味での“修行名”でした。ですから戒名は当然、生きている間につけられる「生前戒名」が本来の意義だったのです。現在のような「死後戒名」は、後世になってから出来上がった形式にすぎません。

 ところが今では戒名といえば、むしろ死んでからつけられる名前が常識になっています。院号なら数十万、居士号は百万単位になることもめずらしくなく、著名人になると、数千万にものぼるケースがあります。しかし、戒名料の相場が経典に載っているはずがなく、要は、住職の胸一つ、信徒の心一つ。いくらでも額は上下する。これが戒名料の実態なのです。

 この例に見られるように、およそ戒名、法事、塔婆供養など、現在行われている仏事は、江戸時代の檀家制度などから定着した後世の“風習”といってよく、成仏や悟りに到達するための修行とは全く関係がないものです。

 にもかかわらず、日蓮正宗の住職たちは、“死後戒名がないと成仏できない”と宗祖の教えにないことを言い、信徒を脅迫してきました。そのうえ、つける戒名はいい加減そのもの。戦前は、「軍雄院大行日邦居士」「勇進院護国日殉居士」など、軍部、時流に媚びた戒名をつけていたかと思えば、最近では自転車屋さんに「自転法輪信士」、深夜タクシーの運転手に「夜走院」と、単なるゴロ合わせでつけている有様です。

 このように後世にできた単なる風習にすぎないものを、「仏事」の美名で糊塗し、さもありがたいように粉飾して供養を取り、うまく商売道具に使ってきたのが、仏事をめぐるカラクリだったのです。

 私たちも、かつてこの既成仏教の一端を垣間見てまいりましたが、本来の仏教の精神、民衆の幸福のために生きた仏教への変革を決意して、現在、こうした仏教における“常識のウソ”を徹底的に見直し、平成の宗教改革に取り組んでおります。

 日本の仏教界は、まず檀家制度以来の悪しき形骸化、商業主義に染まった腐敗体質を一掃し、仏教本来の民衆仏法の姿を一日も早く取り戻すことが急務と考えます。どうか皆様には、今後とも暖かい御理解と御支援を切にお願い申し上げる次第であります。