現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義 三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて
現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義
三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて
青年僧侶改革同盟 松岡幹夫
日蓮を宗祖、日興を開山と仰ぎ、日目・日道の法系を継ぐ富士大石寺門流では、日蓮が日興に付嘱した本仏の内証(内面の悟り)が、歴代法主の「唯授一人血脈相承」(以下、唯授一人相承と略示)によって七百年にわたり伝持されてきたと自負する。一方、創価学会の側は、日蓮の教えのままに折伏弘教に励み、世界一九〇ヶ国、一千万人を超える人々に日蓮仏法を流布したという未曾有の実証を誇りとし、宗祖・日蓮に直結した「信心の血脈」が根幹であると主張する。こうして現宗門は「唯授一人の血脈」を、創価学会は「信心の血脈」を、それぞれ主張しながら論争を続け、今日に至っている。しかしながら両者の論争には、一つの盲点があるようにも思われる。
盲点とは、学会の「信心の血脈」論が大石寺二六世・日寛の本尊論を踏まえて提唱されている、ということである。実例に即して説明してみよう。近年、学会の池田大作名誉会長が長期にわたって行った教学対談の中に「日蓮大聖人は虚空会の儀式を借りて、御自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった」[i]「大聖人は、御自身の己心に根源の妙法を観じとり、御自身の生命のコスモス(宇宙)を虚空会を用いて御図顕された。それが、十界具足の曼荼羅本尊です」[ii]といった表現が散見される。これによれば、宗門において唯授一人相承の秘事とされる本仏甚深の内証はじつは曼荼羅本尊として図顕され公開されているのであり、もはや万人が曼荼羅本尊を通じて本仏の内証にアクセス可能である、という見方が生ずる。そしてその前提に立ったときには、個々人が曼荼羅本尊への信を通じて本仏の内証を直接継承する、という意味での「信心の血脈」が最重要事となるわけである。だが問題は、本仏日蓮の内証の図顕が曼荼羅本尊である、というような考え方自体を一体どこから引き出したのかであろう。その答えは、現在の学会教学の基盤となった日寛の教学に求める以外にない。事実、日寛の「観心本尊抄文段」を読むと、日蓮本仏の観点から「仏、大慈悲を起し、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」(文段集458)「久遠元初の自受用身、大慈悲を起して妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頚に懸けしむ」(文段集547~548)などと述べられている。学会は、まさにこの日寛の曼荼羅本尊観の文脈の中で「信心の血脈」を論じているのである。
だとすれば、学会と宗門の血脈論争は、日寛の本尊論をもって日蓮の教義の究極とみるのか(学会)、それとも日寛の本尊論の他にさらなる唯授一人相承の秘法を立てるのか(現宗門)、という論争であるようにも思えてくる。ゆえに筆者としては、「信心の血脈」か「唯授一人の血脈」か、という二者択一論の前に、日寛教学は大石寺の唯授一人相承といかなる関係を持つのか、について検討する必要性を感ずるのである。その際に想起されるのは、日寛の教学展開が常に真剣な秘密開示性をともなっていたことであろう。日寛は、三大秘法、日蓮本仏論、人法体一などの大石寺門流独自の法門を論ずる際に、必ずと言ってよいほど「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し。故に前代の諸師尚顕に之を宣べず」「これ内証深秘の相承なり」「これ当流の秘事なり。口外するべからず」などの意味深長な言葉を付した。そこには、大石寺の唯授一人相承の内容を理論的に開示しよう、との意図がありありとうかがえる。しかるに日寛教学を秘密開示性という視点から本格的に分析する試みは、今までなかったと言ってよい。
そこで筆者は、日寛教学に関して、唯授一人相承の教義の理論的開示という観点から、改めて検討を加えてみたいと思う。また、歴史的にみて日寛教学は唯授一人相承の教義の理論的公開につながったのか、という問題にも考察を進める。日寛による秘密法門の開示は、元々同門の一部の学僧たちに向けられ、相伝文献の開示も著しく制限されていた。よって長年にわたり、一般の平僧や在家信徒、門外者が日寛の諸著作に触れ、大石寺の唯授一人相承の内容をうかがい知ることは困難な状況下にあった。日寛の秘密開示が公開性を持つには、彼の諸著作やそこに引用された相伝書が、全面的に出版公開される時期を待たねばならなかったと言える。その意味では、日寛教学の公開過程に関する考察も、現代の血脈論争に有効な回答を与えるために避けて通れない重要課題となろう。
以上の観点を踏まえ、本稿では、日寛教学にみられる秘密開示性の分析を中心に考察を行っていく。そして、この考察に基づきつつ今日の法体相承論や僧宝論を再検討した後、現代において唯授一人相承の信仰上の意義をいかに考えるべきか、について最終的見解を示すことにする。なお断っておくが、本稿は大石寺門流が唯授一人相承と信じてきた教義の公開過程を論ずるものであって、何も大石寺の唯授一人相承を日蓮日興以来の歴史的事実として承認しているわけではない。大石寺の相承法門の形成過程については日本仏教思想史や宗門史の観点から更なる文献精査が必要であり、今後の研究の進展に期待したいと思う。
大石寺門流の信仰にとって、歴代法主による唯授一人相承はいかなる意義を持っているのだろうか。現存する史料を整理すると、以下の観点が見出される。
まず大石寺の唯授一人相承は、門流僧俗にとって根本の信仰対象となる「本門戒壇の大御本尊」(以下、戒壇本尊と略示)の護持継承を主たる目的としている。大石寺開山の日興が三祖の日目に宛てたとされる「日興跡条条事」には「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を授与す」(歴全1-96)とある。また織豊時代の一四世・日主は、「日興跡条々事示書」の中で「大石寺は御本尊を以て遺状成られ候、是は則ち別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇の御本尊、興師従り正応の御本尊法体の御付属、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱の全体色も替らず其の儘なり」(歴全1-459)と記し、現存する公開史料の上で初めて「本門戒壇の御本尊」のことに触れるとともに、その戒壇本尊が大石寺の唯授一人相承の法体であることに言及している[iii]。その後、およそ近世・近代の歴代法主は、戒壇本尊が血脈相承の法体であることを高調してきたと言い得る。
ところで、戒壇本尊の護持継承にあたっては、当然のごとく本尊義の相承も行われる。九世・日有は「本尊七箇・一四の大事の口決有之」(「有師談諸聞書」、要2-160)と語ったとされ、二二世・日俊も「当寺は本尊口決の相承とて、日蓮聖人より興目代々の相伝あり、其の上に岩本開山日源の□□興師随逐して三度の相伝あり本尊七箇の口決あり」(「弁破日要義」、歴全3-242)と記している[iv]。さらに近世宗門では、本尊義の相承が「一大事の秘法」の授受として表現されることもあった。例えば、三五世・日穏が記した血脈相承の実施記録の中に「元師云く日蓮が胸中の肉団に秘隠し持玉ふ所の唯以一大事の秘法を唯今御本尊並元祖大聖人開山上人御前にして三十五世日穏上人に一字一間も不残悉く令付嘱謹て諦聴あるべしとて則一大事の秘法御付嘱あり」といった記述がみられる[v]。日寛の「文底秘沈抄」に「教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門本尊の御事なり、是則釈尊塵点劫来心中深秘の大法の故に一大事の秘法と云ふなり」(要3-93)とあるごとく、大石寺教学の文脈において「一大事の秘法」とは「本門本尊の御事」を指している。ゆえに「一大事の秘法」の授受は、口頭による本尊義の伝授を意味するわけである。
では、こうした本尊義の内容とは一体いかなるものか。それは、一つには宗祖・日蓮が示した「三大秘法」(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)に関する宗門独自の教義であり、今一つには曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義であると考えられる。
三大秘法に関する宗門独自の教義に関しては、九世・日有からの聞書に「日目の耳引法門と云ふ事之有り・本尊の大事なり三箇の秘法なり、其の中には本門の本尊なり」(「雑々聞書」、要2-163)とあり、三大秘法のうちで特に本門の本尊にかかわる法門の相承があることが示唆されている。江戸期に入ると、二二世・日俊が「此三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや、其の戒壇の本尊の座す地は広布の至らざる迄は此の地戒壇に非ずや」(「初度説法」、歴全3-103)と説き、三大秘法の「本門の本尊」とは「当寺戒壇の板本尊」である、と明示するに至る。そして二五世・日宥になると「其の金口相承も五大部三大秘の本尊の妙意に過ぎず」(「観心本尊抄記」、歴全3-369)「大上人は三大秘を本尊と為す」(「日蓮の二字沙汰」、歴全3-404)等と記し、唯授一人相承における教義継承面を意味する「金口相承」の内容が[vi]、祖書の五大部から帰結されるべき三大秘法の本尊義であることを明かしている。さらに二六世・日寛は、まだ細草檀林の学僧で覚真日如と称していた頃、元禄一二(一六九九)年に行った寿量品に関する説法の中で「祖師より興師へ御付嘱亦是れ三大秘法なり。興師より目師への御付嘱も亦是れなり」「目師より代々今に於て、廿四代金口の相承と申して一器の水を一器に写すが如く三大秘法を付嘱なされて大石寺にのみ止まれり。未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり」(要10-131)等と講述し、大石寺の金口相承が「本門の戒壇の御本尊」を中心とした「三大秘法」の付嘱に他ならないことを述べている。これらの記述に明らかなごとく、大石寺宗門では三大秘法の中の「本門の本尊」を戒壇本尊とみなし、それをもって三大秘法の正体と信ずる。かくのごとき三大秘法義は、門流の信仰信条を根底的に規定するという点で、宗門の信仰上、不可欠な意義を有すると言えよう。
次に、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義は、以前は法主のみが管見可能だったが現在は出版公開されている「御本尊七箇相承」「本尊三度相伝」の記述などからうかがい知ることができる。それらの教義はいずれも、歴代法主が宗祖・日蓮の意を汲んだ本尊書写を行うために必要とされたのであろう。門流僧俗の帰依の対象たる戒壇本尊は古来、宗門の秘仏とされ、広布の日までは特別に内拝が許されるのみとされている。しかしながら、歴代法主が「分身散体」の意義から戒壇本尊の内証を書写して僧俗に授与することにより、門流の人々は寺院や家庭で戒壇本尊の当体に直接触れることができた。二五世・日宥の「観心本尊抄記」に「無始の罪障消滅戒壇の本尊を代々上人之を写し我等に授け給へば我等が己心の本尊を眼前に顕し給へると無疑曰信明了曰解と信心第一也」(歴全3-374)とあるごとく、秘仏たる大石寺の戒壇本尊を歴代法主が書写して檀信徒に授与するという化儀は伝統的に存在したことが史料上でも確認される。その意味で、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義を歴代法主が継承していくことは、やはり門流僧俗の信仰にとって不可欠な意義を持っていたと言わねばならない。
以上を要するに、大石寺門流の信仰における唯授一人相承の意義には、①信仰の根本対境たる戒壇本尊の護持継承 ②信仰信条を根底的に規定する宗門独自の三大秘法義の継承 ③本尊書写を行ううえで必要となる曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義の継承、という三つが含まれることがわかる。もちろん唯授一人相承の根本的な意義は、信徒の一生成仏を支えつつ広宣流布を目指すところにある。右に挙げた三つの意義も、日蓮仏法による一切衆生救済という大目的から派生したものに他ならず、唯授一人相承は宗祖の誓願を受け継ぐに足る「信心の血脈」が根幹となる。唯授一人相承の意義は「信心の血脈」の継承を大前提として論ずべきであり、「信心の血脈」を失った法主による相承はいかなる状況下であれ何の意義も持たない。そのうえで言うならば、日寛教学の登場を嚆矢として、宗門独自の三大秘法義は理論的に公開されていき、加えて秘伝の本尊相承書が出版公開されたり、法主による本尊書写が時代的変遷を経て実質的に不要化したりしたため、現代では②と③の意義が消失し、必然的に①の意義も変更を余儀なくされているのである。このことは、本稿の中で順を追って説明していきたい。
相承の際に秘匿を指示されるから、と言えばそれまでだが、文献的にまず思い当たるのは、大石寺門流において重書とされる日蓮の「三大秘法禀承事」の末文に「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」(全集1023)とあることである。これによれば、日蓮自身が三大秘法の法門の秘匿を望んでいたことになる。三大秘法は日蓮による新義である。また大石寺門流では、日蓮を本仏にして人本尊と仰ぎ釈尊を迹仏とみる、という独特の立場から三大秘法を論じ、しかもその法体を大石寺の戒壇本尊に帰着せしめる。日本中世や近世の仏教界にあって、大石寺門流が掲げる三大秘法は、耳慣れない言葉であるのみならず、その釈尊観や本尊論、法体論がいかにも我田引水で奇想天外な印象を人々に与えたと思われる。日寛は「取要抄私記」の中で「若し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、何れの人か之を信ずべけんや。此を以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家の習う法門はこれなり」(文段集799)と述べているが、こうした日蓮本尊論によるかぎり、日蓮の三大秘法義は著しく仏教的新奇性を持った説なのである。それゆえ大石寺門流は、日蓮も三大秘法義を厳重に秘匿したと信じたのであろう。
ならば、日寛はなぜ秘すべき宗門独自の三大秘法義を六巻抄等で詳細に論じ、結果的に大石寺の金口相承の中心的教義を理論的に開示していったのだろうか。彼が生きた時代には、徳川幕府の宗教政策によって自由な布教が制限されたかわりに、日蓮宗各派で教学研究が盛んとなった。そうした時代背景の下で日寛も、八品派と富士派が合同で作った千葉の細草檀林に入って長年研学に励み、同檀林の化主を務めた後には大石寺の学頭に招かれ、門流独自の立場から祖書の講義を行う中で大石寺二六世の法燈を継いでいる。日寛は、日蓮宗各派の教学振興の気運の中で自らも大石寺教学の確立を目指したといえ、そこから秘伝の三大秘法義を理論的に体系化する意図も必然的に生じてきたと言えよう。
だがそれ以外に筆者は、日寛自身の記述を通じ、彼が門流の秘伝をあえて開示せざるを得なくなった事情として、次の三点を指摘しておきたい。
第一に、日蓮宗各派が教学論議を盛んに行う中で、大石寺の相伝教学からみれば看過できない法義の乱れが広く伝播し横行するようになった、という事情がある。日寛が六巻抄等で批判的に取り上げた日蓮宗各派の論書の著者のうち、主たる者を挙げてみると、一致派では身延派の行学院日朝や一音院日暁、六条門流の円明院日澄、不受不施派の長遠院日遵や安国院日講、また勝劣派では八品派の常住院日忠、富士門流では京都要法寺の広蔵院日辰と実蔵院日賙、等々である。彼らは、日蓮入滅から四百数十年の間に現れた日蓮宗各派の論客であるが、いずれも日寛が活躍した頃の日蓮仏教界において、何らかの教学上の影響力をもっていたと考えられる。日寛は、こうした諸師の論が日蓮門下に流通している状況をみて、大石寺門流の相伝教学を護るためには理論的顕揚が必要である、と感じたのであろう。それゆえ金口相承の中心的教義である三大秘法義を理論化し、対外的論議に耐えうる門流教学を構築しようとしたのである。換言すれば、近世の日蓮仏教界にみられる宗派横断的な教学書の流通が日寛に唯授一人法門の理論化を促した、ということである。
第二に、日寛は、種脱相対判を説いた相伝書の文が他門に盗まれ引用されている、との危惧を抱いていた。このことも、日寛をして三大秘法義の理論的開示を実行せしめた一つの背景的事情と考えられよう。日寛の「三重秘伝抄」では、「種脱相対の一念三千」に関して「此即蓮祖出世の本懐、当流深秘の相伝なり焉ぞ筆頭に顕すことを得んや」と述べられた後、「然りと雖も近代他門の章記に竊かに之を引用す、故に遂に之を秘すること能はず今亦之れを引く」として、「本因妙抄」から「問て云く寿量品の文底一大事と云ふ秘法如何、答て曰く唯密の正法なり秘すべし秘すべし一代応仏の域を引へたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」との文が引用されている(要3-50)。「百六箇抄」と合わせて両巻血脈とも言われる「本因妙抄」は、日興門流の重要な相伝書であり、大石寺五世・日時の写本があるほか、日尊写本によるとする要法寺の広蔵院日辰の写本、保田の妙本寺日我の写本がある。古来より興門流の秘書とされてきたが、日寛の時代には「近代他門の章記に竊かに之を引用す」という状況が生じた。五九世・堀日亨の注釈によると、この「近代他門等」とは「八品門家等」を指すとされる(同前)。日寛は、興門流の秘書たるべき「本因妙抄」の他門への流出に危機感を感じ、「遂に之を秘すること能はず」との思いから先の「本因妙抄」の文を引用しつつ、大石寺の相承法門を構成する「種脱相対の一念三千」を説明したのである。日寛による相伝書を用いた三大秘法義の理論的開示は、こうした事情からも促進されたわけである。
さて第三に、先に列挙した日蓮宗各派の学僧たちの中で、特に要法寺日辰の教学が近世初期の大石寺門流に多大な影響を与え、一時は大石寺門流の相伝教学が覆い隠される事態になった、という問題もある。背景には、一四世・日主の代に大石寺が要法寺との通用を始め、一五世・日昌から二三世・日啓まで、じつに九代にわたる大石寺法主の任を要法寺出身の僧が務めたという事情がある。この間、一七世の日精が日辰さながらの釈迦仏造立・法華経一経読誦を主張し[vii]、大石寺門流の化儀化法から大きく逸脱したことは有名であるが、二二世の日俊の代からは門流正統の本尊義の復興がはかられ、二四代の日永に至ってその効が顕れたと言われる(要8-256)。しかし日俊らが要法寺の異流義を排除したと言っても、法義の上から完全な決着をつけたわけではない。日俊は、末寺の造仏撤廃を進めたとされるが、他方で北山本門寺から自讃毀他で訴えられた際に奉行所向けに書いた証文の中では「京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法寺より罷り越し候」(要9-33)などと述べ、恐らくは当局の弾圧を回避するために、要法寺流の造仏・一経読誦を自ら進んで容認する姿勢を示している。そうしたことが、法義の上で日辰教学とけじめをつけないまま行われたのであるから、当時の大石寺門流が要法寺の弊風を一掃していたとは言い難いだろう。ただ、日寛の存命中か死後かは定かでないが、二五世の日宥が、日辰の総体・別体の本尊論について「此の義は煩はし」「辰抄の人法本尊と云ふ揔じて文底深秘の種本脱迹を弁ぜず」(「本尊抄記」、歴全3-381、382)などと批判したことはあった。だがそれとて、日辰の本尊論や修行論の全体に及ぶ本格的な批判ではなかった。かくのごとき諸事情を考慮するならば、日寛が日辰を舌鋒鋭く攻撃した底意には、要法寺教学と訣別し、大石寺教学の優位性を立証する狙いがあったとみるべきである。
春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に及ぶ、客曰く永禄の初洛陽の辰造読論を述べ専ら当流を難ず爾来百有六十年なり、而る後門葉の学者四に蔓り其間一人も之に酬ひざるは何ぞや(要3-138)。
これは、日寛の「末法相応抄」の序文である。日辰の造仏・一経読誦論は一時的にせよ、大石寺の化儀化法を少なからず攪乱したのであり、日寛はそれに対する門流内からの反論が出ないことを問題視したものと考えられる[viii]。興門の日尊の流れを汲む日辰は、大石寺と同じく文底種脱の法門を立てる。とはいえ、種脱の法体は同じで衆生の機根に応じて利益の違いがある、とする種脱一体・本同益異論を説いて造仏を勧め、種脱相対判や日蓮本仏義を批判している。後に、日辰の造仏論に影響された大石寺一七世の日精は、「随宜論」に「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」と述べるなどして、造仏こそ日蓮の本意なり、と主張し、大石寺伝統の戒壇本尊中心主義を迷乱させた。要法寺教学は、まさに大石寺教学と似て非なるものであり、それだけに日寛としては、富士門流に伝わる文底種脱の法門を、改めて大石寺の相承法門の立場から顕説する必要に迫られたのだろう。それは取りも直さず、金口相承の秘義の理論的開示とならざるを得ない道のりであった。
以上、日寛が金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由として、日蓮門下全般の教学興隆、興門流の秘書の対外流出、当時の大石寺門流に残る要法寺教学の痕跡、という三点を指摘した次第である。
では、日寛が金口相承の三大秘法義をどのように理論的に開示したのか、について、いくつかの項目を立てて具体的にみていくことにしよう。
相承法門としての文底下種法門や日蓮本仏義などは、日寛の興学以前にも、歴代法主や門流内の学僧たちによって断片的に取り上げられてきた。けれども、そうした門流秘伝の教義信条を、大石寺の金口相承の核心にあたる三大秘法義に関連づけて体系的に理論化する試みは、二四世・日永、二五世・日宥、二六世・日寛の三法主によって始められたと言ってよい。日永や日宥は、日寛の影響を受けたのか、あるいは日寛に影響を与えたのか、体系的ではないものの、文底下種の三大秘法の意義を説示し、人法体一の本尊義を所々で論じている。そして日寛は、日永や日宥の所説をさらに広く展開しつつ、宗門独自の三大秘法義を理論的に開示していくのである。
(1)寿量文底の事の一念三千論
日寛は、日蓮の「開目抄」における「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(全集189)との文を引いて「三重秘伝」の教義を立てている。三重秘伝とは権実・本迹・種脱という三種の相対判を通じて法華経寿量品の文底に事の一念三千が秘沈されていることを明かし、その事の一念三千を仏法中の最勝とするものである。日寛の「三重秘伝抄」では、「開目抄」に示唆される文底秘沈の法門こそが「当流深秘の大事」であり、「先哲尚分明に之を判ぜず」と言われるがごとき門流の秘伝であるとされる(要3-6)。
寿量文底の事の一念三千については、「本因妙抄」に「問うて云く寿量品文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(全集877)とその意義が説かれているが、「唯密の正法なり秘す可し秘す可し」とあるように、大石寺門流では古来より極秘法門とされている。それゆえ日寛以前の諸師は、「本因妙抄」を公然と引用して文底の事の一念三千の意義を詳細に説明することなどなかったのである。
また寿量文底の一念三千が「事」とされるゆえんに関しても、門流独自の秘伝があったものと推察される。そのことは、「三重秘伝抄」の中で「文底独一本門を事の一念三千と名づくる意」が「唯密の義」とされるところに表れている(要3-53)。したがってこの点に関しても、日寛以前には誰人も踏み込んだ説明を行っていない。あえて言えば、日寛の師である二四世・日永が、「口決」の中で「此は文底法門一念三千事行五七字也。是は五百塵点劫当初我身五大即妙法蓮華経と悟り云云」(歴全3-318)と述べている。これは、文底の一念三千が事である理由として久遠元初の境智冥合の観点を示唆したものと思われるが、あくまで暗示的言説にすぎない。
要するに日寛以前の諸師は、寿量文底の事の一念三千の意義も、またそれが「事」とされるゆえんも、いまだ十分には説明しなかったのである。しかるに日寛は、日永の死の二年前に「三重秘伝抄」の草稿を著し、自らの晩年にはそれを再治したうえで、「文底秘沈」の法門を「講次に因みて」理論的に開示していった。それは、先の「開目抄」の文を標・釈・結の三段に分かつとともに、十項目にわたる説明を通じて段階的に議論を深めていくという詳細な論法であった。これによって、寿量文底の事の一念三千が理論的に「文底独一本門」として選択され、その「事」たるゆえんは「人法体一」にあることが諸々の相伝書を引きながら説明され、文底の一念三千が正像未弘・末法流布の法門であることも宣せされたのである。「三重秘伝抄」は、「本因妙抄」「御本尊七箇相承」等の当時は門外不出とされた相伝書を引用しながら、文底の事の一念三千について初めて詳細に論じた教義書であった。
そしてこの「三重秘伝抄」の論述は、当然のことながら、金口相承の三大秘法義の理論的開示にもつながっていく。同抄が理論的に説き示した文底の事の一念三千とは、「文底秘沈抄」で明かされるごとく三大秘法中の法の本尊であり、所詮は唯授一人相承の法体たる戒壇本尊のことに他ならないからである。文底の事の一念三千に関する詳細な説明は、日寛が三大秘法義を理論的に開示するうえで、第一に必要となる作業だったと言えよう。
(2)戒壇本尊を中心とする三大秘法論
日寛は「文底秘沈抄」の冒頭に「法華取要抄に云く問て曰く如来の滅後二千余年、竜樹、天親、天台、伝教の残したまふ所の秘法何物ぞや、答て云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり云云」と記し、そこに説かれた三大秘法の意義を明かすことについて次のように述べている。
此は是文底秘沈の大事、正像未弘の秘法、蓮祖出世の本懐、末法下種の正体にして宗門の奥義此に過ぎたるは莫し。故に前代の諸師尚顕に之を宣べず況や末学の短才何ぞ輙く之を解せん、然りと雖も今講次に臨んで遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん。初に本門の本尊を釈し次に本門の戒壇を釈し三に本門の題目を明すなり
(要3-70)。
三大秘法こそ「文底秘沈の大事」にして「蓮祖出世の本懐」であり、「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と言うべき究極の秘伝である。ゆえに前代の諸師はこれを秘してきたが、日寛はその秘中の秘を「講次に臨んで遂に已むことを獲ず」理論的に開示する、というのである。同文は、これから論ぜられる「文底秘沈抄」の内容が、金口相承の秘義の理論的開示であることを明瞭に予告している。ちなみに相承を受ける前の日寛は、文底秘沈の三大秘法について「宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云云「塔中及び蓮・興・目」等云云。これ知る所に非ざるなり。問う、若し爾らばその謂は如何。答う、「蒼蝿・碧羅云云」」(「撰時抄愚記上」、文段集271)などと述べ、唯授一人相承の法主以外には知り得ない事柄であるとしていた。それを思えば、晩年の日寛が再治本の「文底秘沈抄」で「遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」との態度を示したことは、唯授一人相承を受けた当事者として文底秘沈の三大秘法を初めて理論的に開示せん、との決意の表れに他ならないと言えよう。
しかして「文底秘沈抄」は、第一の本尊篇で人・法・人法体一の本尊の意義を論じ、第二の戒壇篇で事義の戒壇と富士戒壇を論じ、第三の題目篇では信行具足を本門の題目と名づける旨を説いている。その一々が唯授一人相承の根幹部分の理論化に他ならないと言えるが、ここではまず、三大秘法の総体にかかわる相伝信条の理論的開示をみておきたい。
それは、大石寺の戒壇本尊をもって三大秘法の正体とする、という相伝信条の理論的開示である。先にみたように、本尊付嘱を標榜する大石寺門流は、戒壇本尊中心の三大秘法観を伝承してきた。しかし他門流の題目中心の三秘論と対立する、この大石寺独自の見解は、日寛以前には単に門流内の相伝信条として表明されるにとどまっていた。そこに日寛が現れ、大石寺門流の三大秘法義を理論的に開示したのである。
日寛の理論は、「本門の本尊」を中心に三大秘法の開合を論じ、その「本門の本尊」の正体を大石寺の戒壇本尊とするものである。三秘開合論は「取要抄文段」「報恩抄文段」「依義判文抄」に説かれているが、「依義判文抄」では、本尊所住の処を「本門の戒壇」、本尊を信じて妙法を唱えることを「本門の題目」として、本門の本尊から三大秘法が開かれていく筋道を立てる。また本尊が三秘の中心に置かれる理由としては、梁高僧伝に「一心とは万法の総体」云々とある文を引きながら、「当に知るべし本尊は万法の総体なり」と示している(要3-106)。
かくして「三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり」(同前)との説が導かれるのであるが、日寛はさらに「故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法総在の本尊と名くるなり」(同前)と説き、三秘の中心たる「一大秘法」の本門の本尊を「本門戒壇の本尊」とし、それを「三大秘法総在の本尊」と命名している。本門の本尊を大石寺の戒壇本尊とみることは、前述のごとく二二世の日俊がすでに主張しており、日寛はその主張を受け継いだのであるが、「依義判文抄」にはこれに関する理論的説明がみられない。その腰書に「本門戒壇之願主」とあり、古来より「本門戒壇の大御本尊」と称せられてきた大石寺の戒壇本尊は、名称自体が本門戒壇に安置すべき本門の本尊たることを表示している。戒壇本尊を本門の戒壇に安置する本尊と信ずる大石寺門流にとって、それが本門の本尊たることはあまりに自明であり、日俊のごとく「本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや」という理屈で充分だったのだろう。ゆえに日寛も、理論化の要なき現実として自らの三秘開合論に組み入れ、戒壇本尊を「三大秘法総在の本尊」とする理論体系を作り上げたと考えられる。
日寛が展開した戒壇本尊を中心とする三大秘法論は以上のごとくであるが、これによって金口相承の三大秘法義における戒壇本尊の意義づけが理論的に明示されたと言えるだろう。
(3)日蓮本仏論
一般に、日蓮本仏論は日寛によって確立されたとみられているが、日蓮を久遠元初自受用報身にして人本尊と取り定める義は門流上古の時代からあった。
開祖の日興は、門下僧俗が届けてきた供養の品々を、釈迦仏や他の仏菩薩ではなく日蓮に捧げたことが数々の書簡から知られる。「法花聖人の御宝前に申上まいらせ候了」(歴全1-122)「法華聖人へ御酒御さかな種々に恐入て給候了」(歴全1-157)「法主聖人の御宝前に奉備進候了」(歴全1-197)「ほとけしやう人の御けさんに申上まいらせ候ぬ」(歴全1-199)といった日興書簡の記述をみるかぎり、日興は生御影、あるいは本意として曼荼羅本尊を亡き日蓮と拝し、その宝前へ供物を奉じていたようである。
また、日興の弟子で重須談所の第二代学頭を務めた三位日順は、「本因妙口決」において「本因妙抄」の台当二十四番勝劣中の第二十四「彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観・此れは久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱ふ」の文を解釈し、寿量品の釈尊を「応仏昇進の自受用報身」とみなしつつ、「久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなりと云云、てりひかりたる仏は迹門能説の教主なれば迹機・熟脱二法計りを説き玉ふなり」(要2-83)と論じている。釈尊を応仏昇進の自受用報身・迹門熟脱の教主と退け、日蓮を久遠元初の自受用報身と取り定める義は、明らかな日蓮本仏論である。この日順の論は後の大石寺法主に引き継がれたといえ、一三世・日院は「要法寺日辰御報」の中で「本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり。照り光りの佛は迹門能説の教主なれば迹機の熟脱二法計り説き給ふなり」(歴全1-450)と先の日順の言葉のままに述べ、日俊や日寛は「本因妙口決」を書写している(要2-84)。
さらに日順は、暦応五(一三四二)年に草した「誓文」の中で「本尊総体の日蓮聖人」(要2-28)という表現をも用いている。これは、門流上古において日蓮を本尊と立てる義があったことをうかがわせるものであり、やがて九世・日有の頃になると「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(「化儀抄」、要1-65)と明示される。
その他、左京日教は日有に帰伏する以前から「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(「百五十箇条」、要2-182)という観点で日蓮本仏論を唱え、晩年にも「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(「類聚翰集私」、要2-320)と述べている。
さて、このような宗門古来の日蓮本仏論に対し、日寛がとった態度としては次の三点が重要であろうと思われる。
第一に、日寛は宗門古来の日蓮本仏論を門流秘伝の相承法門とみなしていた、という点が重要である。学頭時代の日寛の諸著作をみると、本因妙の教主釈尊と日蓮との一致説(名異体同)が随所で論じられ[ix]、そのことが内証深秘の相伝であると強調されている。具体的に挙げると、「釈尊の本因即ちこれ日蓮なり」(「撰時抄愚記」、文段集221)「蓮祖即ちこれ久遠元初の本因抄の教主釈尊なり。秘すべし、秘すべし云云」(同前、文段集257)「今日の蓮祖聖人は即ちこれ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全くこれ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。これを秘すべし、これを秘すべし」(「取要抄文段」、文段集568~569)「これ相伝の法門なり。君に向って説かず。所詮、本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん云云」(同前、文段集578)等々である。
次に、唯授一人相承を受けた後の日寛の言説に目を転ずれば、やはり本因妙の教主釈尊と日蓮との名異体同が門流の秘伝として強調されている。「当山古来の御相伝に云く本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事なり云云」(「末法相応抄」、要3-162)「若し本因妙の教主釈尊の化導に約せば、今は末法に非ず、還ってこれ過去なり。過去とは久遠元初なり。故に行証あり。これ当流の秘事なり。口外するべからず。当に知るべし、本因妙の教主釈尊とは、即ちこれ末法下種の主師親、蓮祖大聖人の御事なり」(「当体義抄文段」、文段集664)「第六の文底の教主釈尊は即ちこれ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、これを思え云云」(「観心本尊抄文段」、文段集531)などがそれにあたる。なお「当体義抄文段」では「問う、久遠元初の自受用身とは即ちこれ釈尊の御事なり。何ぞ蓮祖の御事ならんや。蓮祖はこれ本化の上行菩薩なり。何ぞ久遠元初の自受用身といわんや。答う、これ当流独歩の相承にして、他流の未だ曽て知らざる所なり云云」(文段集702)と述べられ、日蓮を久遠元初の自受用身とみることが「当流独歩の相承」であるとも記されている。
要するに日寛は、宗門古来の日蓮本仏論を〈本因妙の教主釈尊=久遠元初自受用身=日蓮〉の法門と理解し、特に登座後はそれが相承法門であることを力説したと言える。もっとも、三位日順や左京日教が早くから日蓮本仏の義を説いているのをみてもわかるとおり、日蓮本仏論それ自体は決して唯授一人の相承法門とは考えられない。だが日寛は、それを金口相承の秘義の部分的露出とみなしていたようである。
その証左に、登座後の日寛は、金口相承の三大秘法義を構成する重要法門として日蓮本仏論を説き示している。これが第二に重要な点である。三大秘法論の構成法門としての日蓮本仏論は、「文底秘沈抄」の「本門の本尊篇」における「人本尊」の段にみられる。そこでは、始めに「人の本尊とは即是久遠元初の自受用報身の再誕末法下種の主師親本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり」(要3-77)と宣された後、その理由を内証深秘の「百六箇抄」の文、現証、文証の順に説明している。「文底秘沈抄」は「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と記されたごとく、大石寺門流の究極の秘伝を明かしたものとされる。であれば、同抄の中で開陳された日蓮本仏論は、唯授一人の金口相承の構成法門とみて然るべきである。
また唯授一人相承の法体たる戒壇本尊の意義と日蓮本仏論との関係については、「当流行事抄」の中で最も直截に述べられている。すなわち同抄には「本門の大本尊其体何物ぞや、謂く蓮祖大聖人是なり、故に御相伝に云く中央の首題左右の十界皆悉く日蓮なり故に日蓮判と主付玉へり、又云く明星池を見るに不思議なり日蓮が影今の大漫荼羅なり又云く唱へられ玉ふ処の七字は仏界なり唱へ奉る我等衆生は九界なり是則真実の十界互具なり云云」(要3-217~218)とあって、「本門の大本尊」=戒壇本尊の「体」が「蓮祖大聖人」なりと明記されるとともに、その文証として現在の「御本尊七箇相承」から三ヶ所が引用されている。日寛は、現在の「御本尊七箇相承」を法主以外には披見が許されない唯授一人相承の秘書と考えており、例えば「取要抄文段」に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)とあるごとくである。
こうしたことから、日寛において、日蓮本仏論が金口相承の法体法門を構成する重要な一部とされたことは疑い得ない。日寛と同時代には、二四世・日永が「久遠釈尊の口唱を今日日蓮直に唱也 能弘本師本尊也」(「口決」、歴全3-320)と、また二五世・日宥が「日蓮大上人は一幅の本尊の主也」「大上人本尊に日蓮在判と遊す程の事なれば近く人本尊なるべし」(「観心本尊抄記」、歴全3-370、373)と記すなど、宗門古来の〈日蓮=本尊〉の義を改めて顕説する動きがみられた。日寛は、門流内にそうした思潮が台頭する中で、三大秘法の理論体系中の重要法門として日蓮本仏論を展開し、三大秘法義の理論的開示を推し進めていったのである。
最後になるが、第三に、日寛が宗門上古からの様々な日蓮本仏論に新たな論証を加え、理論的補強をはかっている、という点も重要である。日寛が日蓮本仏の根拠としてしきりに唱えた、本因妙の教主釈尊と日蓮との名同体異論には、先にみた左京日教の〈本門の教主釈尊=日蓮聖人〉説からの影響がうかがえる。その意味では、日寛の論は宗門古来の日蓮本仏論の踏襲なのであるが、一方で日寛独自の日蓮本仏論が展開されている点も見落とせない。日寛は、「文底秘沈抄」の中で「百六箇抄」の「久遠名字より已来た本因本果の主本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕本門の大師日蓮」(全集854)との文を解釈し、「若外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若内証の深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり、故に知ぬ本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(要3-77)という独自の説を立てている。ここで日寛は、「本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮」との見解を導き出すことによって日蓮門下一般の上行再誕・日蓮説を否定し、「本地自受用の再誕日蓮」という日蓮本仏論を「内証深秘」の秘説として提示する。そして上行日蓮が本地を顕し久遠元初の自受用身となった現証として、「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて」(全集223)云々と述べられた「竜の口の法難」を挙げている。さらには日蓮が「久遠元初の自受用報身の再誕」「末法下種の主師親」「本因妙の教主」「大慈大悲」「南無日蓮大聖人」である文証として、様々な日蓮遺文や「本因妙抄」「百六箇抄」等の相伝書、外典書類を縦横に並べつつ、日蓮が本仏自受用の再誕にして人本尊たるゆえんを力調している。すなわち日寛は、宗門古来の日蓮本仏論に関して現証・文証のうえから多面的な論証を試み、そこに理論的補強を加えようとしたのである。
以上の論点を整理すれば、次のような見解が得られるだろう。宗門古来の日蓮本仏論は、じつは金口相承の三大秘法義にかかわる深義とみなし得る。けれども、日蓮本仏論それ自体は早くから開示され、宗内の学僧たちの知るところであった。それゆえ日寛は、学頭時代から宗門古来の日蓮本仏論を秘伝の法門として紹介していたのだが、自ら法主位に就いた後には、それが金口相承の三大秘法義の構成法門であるという強い自覚を持つに至る。そこで晩年の「文底秘沈抄」再治本において、金口相承の三大秘法義を構成する法門としての日蓮本仏論が、理論的補強を加えつつ開示されていったのである。
(4)人法体一の本尊論
人法体一の本尊論とは、「文底秘沈抄」によれば、事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の法本尊と、久遠元初の自受用報身の再誕・日蓮の人本尊とが「其の名殊なりと雖も其体是一なり」(要3-83)という関係にあることをいう。日寛の「本門の本尊」論の帰着点は人法体一の本尊であり、これこそ大石寺門流の金口相承によって伝えられてきた、三大秘法義の核心であると言ってよい。時代は下るが、明治期の五六世・日応も『弁惑観心抄』の中で「人法体一の法門は内証の中の内証にして相承の上にあらざれば容易に解すること能はさるべし」と述べている[x]。したがって日蓮本仏論の場合とは異なり、人法体一の本尊論については宗門上代に論議された形跡がなく、わずかに日有教学の影響を受けた保田妙本寺の日要が「伝に云く御本尊の総体の色は青也(中略)然れば人法一体なれば其の佛の住処青色の土なるべし」(「御本尊色心相承」、研教30-732)と論じ、またその後の日我が「其の寿量品とは下種の南無妙法蓮華経、日蓮、人法一個の本尊なり」(「化儀秘決」、要1-277)「日蓮聖人は末法弘通三大秘法中の本尊なり 云云 人法一個の習ひ之を思ふべし」(「申状見聞」、要4-92)と述べるのが目を引くぐらいである。
ところが日寛は早くも学頭の頃に、この人法体一の本尊論を開陳している。学頭時代の日寛の著作から引用してみよう。
「一念三千即自受用身也、自受用身は即蓮祖大聖人也」(「原始抄」、研教10-225)「所修は即ち文底秘沈の大法自受用身即一念三千の本尊なり。能修は即ち信心口唱南無妙法蓮華経の五字七字なり」(「方便品読誦心地の事」、要3‐318)「今謂く、本尊の讃にこの文を引く意は、自受用身即一念三千なるが故なり云云。秘すべし、秘すべし」(「撰時抄愚記下」、文段集313)。「境智冥合、人法体一の故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」(「取要抄文段」、文段集599)「過去の自我偈とは、人法体一の御本尊の御事なり」(「開目抄愚記」、文段集174)。
学頭時代の日寛はどうして、金口相承の法門上の核心たるべき人法体一の本尊論を語ることができたのだろうか。そこには、要法寺教学の弊風を取り払おうと蓮蔵坊に学頭寮を置き、日寛を招いて御書を講述せしめた師・日永の指南があったのではないかと推察される。日永の「口決」には「本地自行唯円合とは境智冥合して妙法五字の体也。自受用身の体也。人法一体の無始也」と述べられ、さらに日蓮の「御義口伝」の中から「伝教云く一念三千即自受用身 自受用身とは尊形を出でたる仏」との文が引かれている(歴全3-321)。このような日永の論は、恐らく学頭時代の日寛が主張した人法体一の本尊論の基盤となったであろう[xi]。また日寛は、当時の大石寺よりも門流上代の学風をよく伝えていた保田の日要・日我の著作を熱心に書写し、日我については肯定的評価も下している。日寛が宗門上古の相伝教学を知るうえで、保田門流の論書は大いに参考となったであろう。
ならば、金口相承を受けた後の日寛による人法体一の本尊論には、何らかの変化が現れたのだろうか。結論を先に言えば、その主張は学頭時代と本質的に変わっていない。変わったのは、登座前よりも本格的な議論を展開し、論証面において経釈や日蓮遺文、相伝書類が多用されている、ということである。少々長くなるが、登座後の日寛による人法体一論のうち、主なものを列挙しておく。
「学者応に知るべし久遠元初の自受用身は全く是一念三千なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり、秘すべし秘すべし云云」(「文底秘沈抄」、要3-88)「当家深秘の御相伝に云く我が身の五大は即法界の五大なり法界の五大即我身の五大なり云云」(「当流行事抄」、要3-203)「謂く。人即久遠元初の自受用報身、法即事の一念三千の大曼荼羅なり。人に即してこれ法、事の一念三千の大曼荼羅を主師親と為す。法に即してこれ人、久遠元初の自受用身蓮祖聖人を主師親と為す。人法の名殊なれども、その体恒に一なり」(「観心本尊抄文段」、文段集459)「問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。問う、若し爾らば譬喩如何。答う、且く能所に分つも実はこれ同じきなり。例せば「夫れ一心に十法界を具す」乃至「只心は是れ一切法、一切法は是れ心」等の如し云云」(同前、文段集548)「若し本因妙の教主自受用身は、人法体一にして更に勝劣なし。法に即して人、人に即して法なり。故に経に云く「若しは経巻所住の処には乃至此の中には、已に如来の全身有す」と云云。天台云く「此の経は是れ法身の舎利なり」と云云。今「法身」とは即ちこれ自受用身なり。宗祖云く「自受用身即一念三千」と。伝教云く「一念三千即自受用身」等云云。故に知んぬ、本因妙の教主釈尊、自受用の全体即ちこれ事の一念三千の本尊なることを。事の一念三千の法の本尊の全体、即ちこれ本因妙の教主釈尊、自受用身なり」(「報恩抄文段」、文段集435)「妙法蓮華経の五字は本尊の正体なり。この本尊に人法あり。法に約すれば妙法蓮華経なり。人に約すれば本有無作の三身なり。本有無作の三身とは日蓮大聖人これなり。御書に云く「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」文。これ人法体一なり。また御義口伝下初に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。寿量品の事の三大事とは是なり」文。これまた人法体一なり。一体なりと雖も、而も人法宛然なり。下も去ってこの意なり云云」(「妙法曼荼羅供養見聞筆記」、文段集733~734)。
かくのごとく、金口相承を受けてからの日寛は、それ以前よりも積極的かつ本格的に人法体一の本尊を論じている。ただ、晩年の「文底秘沈抄」をみると、日寛は幾多の経釈論や日蓮遺文、相伝書を並べて人法体一の本尊論を説く一方で、その本尊論の秘密性をも声高に訴えている。同抄の法本尊を論ずる箇所に、「問ふ但文底独一本門を以て事の一念三千の本尊と名くる意如何」(要3-76)との問いかけがある。これに対する回答は、人法体一の本尊の説明となるはずである。なぜならば、「三重秘伝抄」に「問ふ文底独一本門を事の一念三千と名くる意如何、答て云く是唯密の義なりと雖も今一言を以て之を示さん所謂人法体一の故なり」(要3-53)とあるごとく、文底の一念三千における「事」とは人法体一のことだからである。ところが「文底秘沈抄」における先の問いに対して示されるのは「答う云云」(要3-76)のみであり、日寛は人法体一の説明を拒否している。またこの後、日寛は「若当流の意は事を事に顕す是故に法体本是事なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり」とも主張するが、「問ふ若爾らば其法体の事とは何ぞ」との再びの問いに対し、またしても「答ふ、未曾て人に向て此の如き事を説かず云云」と回答を拒否し、次の人本尊論へと移るのである(同前)。このように「文底秘沈抄」における日寛は、人法体一の本尊という文底の法体の「事」に関して、徹底的に教義的説明を拒否する姿勢を示す。とはいっても、同抄の「本尊篇」では最後に「人法体一の深旨」が諄々と説かれ、ついには「学者応に知るべし久遠元初の自受用身は全く是一念三千なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり、秘すべし秘すべし云云」(要3-88)と結論されるのだから、先の問いへの回答は最終的には示されるわけである。結局、日寛は再治本の「文底秘沈抄」の中で人法体一の本尊論を最終確定して表示するにあたり、それが本来、絶対に開示されてはならぬ唯授一人の秘伝であることを強調したかったのだろう。
登座後の日寛は、人法体一の本尊義をまさに縦横無尽に説き示すと同時に、その秘密性をも訴えてやまなかった。こうした日寛の、ある意味で矛盾した秘密性と開示性への両面的志向をみるに、われわれは、人法体一の本尊論こそが金口相承の三大秘法義における最大深秘とされていたことを知るのである。
今までの考察を通じ、唯授一人の金口相承が大石寺門流独自の三大秘法義を伝えるものとされてきたこと、この三大秘法義が二六世・日寛の手によって文底の事の一念三千論・三大秘法の法体論・日蓮本仏論・人法体一の本尊論として理論的に開示されたこと、さらには日寛の教学展開に前後して二四世・日永や二五世・日宥が〈日蓮=本尊〉や人法体一論を唱道するという動きがあったこと、などを確認できたように思われる。大石寺教学の復興運動が漸く実を結び始めた日永以降の時期に、金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な思想環境が整えられていき、最終的には日寛がその作業を完遂したと言えるであろう。
思うに、この見解は何ら新説ではなく、現代の大石寺宗門で暗黙の了解事項となっていることを明確化したものにすぎない。一例を挙げてみると、昭和五〇(一九七五)年に日蓮正宗宗務院の教学部から発刊された『日寛上人全伝』の中に「吾等は日寛上人によって日蓮日興の金口血脈の大法が、偉大なる教学体系として打ち立てられ、後世に遺したまわったことを、深く奉謝申しあげねばならないのである」との一文がみられる[xii]。ここには、日寛が「日蓮日興の金口血脈の大法」を「教学体系」として理論化した、との認識が示されている。日寛の教学的功績が金口相承の教義の理論的開示にあることは、現代の視点から大石寺教学史を概観するならば、誰でも容易に察知できよう。
ただ、ここで注意したいのは、日寛の時代には金口相承の三大秘法義の開示が完全になされたとは言い難い面もあった、ということである。それは、外的条件としての文献の開示性が十分でなかったという問題である。日寛は六巻抄や御書文段等において、富士門流に伝わる様々な相伝書を頻繁に引用しつつ門流独自の三大秘法義を論証していった。「百六箇抄」「本因妙抄」の両巻血脈をはじめ、日興の「上行所伝三大秘法口決」、三位日順の「本因妙口決」等々の相伝書なくしては、日寛の精微な主張も有力な文献的根拠を欠く我説となりかねない。しかるにこうした相伝書の全容は、日寛の時代には一部の学僧のみが知るところであった。つまり、およそ当時の大石寺門流の僧俗には、日寛の三大秘法論を文献的に検証することなど不可能だったのである。
加えて日寛は、当時、法主以外に見ることができなかった唯授一人相承の文献まで六巻抄に引用している。この唯授一人相承の文献とは、本尊相承書をいう。すなわち「取要抄文段」に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)と、また日寛の講義を三〇世・日忠が筆録した「観心本尊抄聞記」に「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12-589)と示唆された本尊相承書である。「本尊七箇の口伝」「筆法の大事」「本尊筆法」は、いずれも五九世の堀日亨編『富士宗学要集』第一巻に編入された「御本尊七箇相承」の内容を指していると考えられる。また「三重口決」とは、同じく要集の第一巻に収められた「本尊三度相伝」のことであろう。日寛は、今日でいう「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」を唯授一人相承の重要な極秘文献とみなし、その開示を認めなかったのである。ところが他方で、六巻抄を読むと、日寛が「御本尊七箇相承」を度々引用しながら、種脱相対の一念三千や人法体一の本尊という最も深遠な法門を根拠づけていることに気づかされる。しかも、その際には必ず書名を隠し、「御相伝に云く」「当家深秘の御相伝に云く」などと記している。これでは「御本尊七箇相承」を披見しえた法主以外、当時の誰人も日寛の六巻抄を文献面から客観的に検証できなかっただろう。
さらに日寛以降の大石寺門流に関しては、六巻抄が長らく貫主直伝の秘書とされてきた、という問題もある。四八世・日量の日寛伝によると、日寛自身、六巻抄の再治をすべて終え、学頭の日詳(後の二八世)にそれを授与する際には「尤も秘蔵すべし」と指示したという(要5-355、356)。日寛が三大秘法義の理論的開示を余すことなく集大成したのが六巻抄であるから、その内容が特に他門の目に触れぬよう、厳重に秘匿されるべきは当然である。しかし門流の僧俗が容易にそれを披見できなかったとすれば、日寛により金口相承の三大秘法義が理論的に開示されたと言っても、極めて限定的な話となってしまう。
結局のところ、日寛が成し遂げた、金口相承の三大秘法義の理論的開示も、六巻抄や同抄に引用された相伝書の数々が公開されるまでは完結しないと言える。そこに今度は、近代における堀日亨の史料公開が大きな意味を持つゆえんが出てくるのである。
近代に入ると、明治四二(一九〇九)年に発刊された身延の祖山学院編『本尊論資料』の中に「御本尊七箇相承」が収録され、初めて出版公開された。続いて、堀慈琳(後の日亨)の協力を得て大正一四(一九二五)年に出版された『日蓮宗宗学全書』第二巻には「百六箇抄」「本因妙抄」が収録され、これまた初公開された。そして昭和期、堀日亨は自ら、大石寺門流の立場に配慮した相伝書の出版公開を手がけていく。昭和一一(一九三六)年一二月、日亨編『富士宗学要集 相伝信条部』が謄写印刷で発刊され、「御本尊七箇相承」「百六箇抄」「本因妙抄」等の富士門流の主要な相伝書がことごとく編録され、出版公開された。
また六巻抄に関しては、後世に書写が重ねられ次第に流伝していくとともに、明治三七(一九〇四)年に五六世・日応が註解した「三重秘伝抄」が東京の法道会から出版された。そうした状況を踏まえ、堀は大正一一(一九二二)年に出版された『日蓮正宗綱要』の中で「此(六巻抄のこと=筆者注)と本尊抄文段とは特に門外不出貫主直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至ったのは、善か悪か全く時の流れであらう」と述べている[xiii]。そしてついに、掘の後援の下で大正一四(一九二五)年に刊行された『日蓮宗宗学全書』第四巻に六巻抄が収録され、全面的な出版公開の日を迎えたのである。この後、六巻抄は、昭和一三(一九三八)年に掘日亨自らが編纂した『富士宗学要集 宗義部之三』の中にも収められている[xiv]。
同様に、日寛の御書文段も近代以降、徐々に公開の方向へと向かっていった。日亨の証言によると、明治三〇年代まで、日寛筆の諸々の御書文段の正本はないものと思われていた。だが彼は独自に調査を行い、大石寺宝蔵の棚の上でそれらを発見したという[xv]。この発見により、写本ではなく日寛直筆の御書文段の内容が初めて明らかになり、大正期から昭和にかけて、「門外不出貫主直伝」の「観心本尊抄文段」の全文と、日寛の主要な御書文段を堀が撮要したものとが、『日蓮宗宗学全書』第四巻や『富士宗学要集 疏釈部二』に収められ、一般に公開されたのである。
時代性や堀日亨の尽力により、富士門流の秘伝書が次々と活字化され、日寛の六巻抄及び御書文段等も出版公開されたことは、まさしく金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な外的条件が整ったことを意味していよう。とはいえ、日亨が戦前に発刊したガリ版の『富士宗学要集』は部数も限られ、ごく一部の僧俗が購入しただけで、広く世間に知れ渡るには程遠い状況であった。しかも当時の門下僧俗の中で、宗学要集を座右に置いて日寛教学を論ずる者など、極めて特殊な存在だったと言ってよい。『富士宗学要集』が名実ともに広く世間に流通し、富士の相伝書や日寛教学が一般大衆レベルにまで浸透するのは、何と言っても戦後、創価学会の出版活動や教学運動が本格化してからである。
日亨は戦後、創価学会の戸田城聖・第二代会長の後援を得て『富士宗学要集』の改訂増補に取り組み、昭和三二(一九五七)年の逝去までに八巻分を刊行、残りの二巻は日亨の一周忌を期して翌年に発刊された。また日亨は創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』の編纂にも携わり、その中に「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」「産湯相承事」などの富士門流の相伝書を加えて発刊した[xvi]。こうした結果、日寛の六巻抄や御書文段、門流秘伝の相伝書等は、初めて一般の在家信徒の目にも触れるようになった。ただし、日寛の御書文段に関しては戦後の『富士宗学要集』でも本尊抄文段を除いてその撮要が収録されるにとどまっていたが、昭和五五(一九八〇)年発刊の創価学会教学部編『日寛上人文段集』が種々の御書文段の全文を平易な書き下しで公開し、以後は一般会員の教学研鑽に資するものとなっている。
戸田会長は、戦後の学会再建の当初から教学振興に力を注ぎ、「一般講義」「一級講義」等の御書講義や教学試験を定期的に開催することで、会員幹部に徹底して日寛教学を研鑽させていった。とりわけ戦後間もない頃から、後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向き、昭和三一(一九五六)年一一月に終了するまで十年もの長きにわたって学会幹部への御書講義を続けた、という事実は注目に値する[xvii]。宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない。そのようにして、かつては大石寺の法主や一部の法門家だけが会得していた相伝教学の真髄が、幾百万もの在家の学会員によって日常的に学ばれるようになったのである。今日では、創価学会の布教活動の世界的拡大や情報技術の格段の発達にともない、日寛の六巻抄や日亨編『富士宗学要集』は世界各地で研鑽され、講述され、論議されるまでになっている。
以上を要するに、時代性を反映した堀日亨の古文書校合・出版事業、戸田会長や堀米日淳が行った学会の会員幹部への教学的薫陶、そして創価学会の世界宗教化などにより、江戸時代の日寛が達成した金口相承の三大秘法義の理論的開示は民衆レベルにまで浸透し、それを根拠づける重要な相伝書の数々も広く公開される時代を迎えたのである。われわれは、現代こそ真に三大秘法義が理論的に開示された時代である、と言うべきであろう。
最後に、この誰人も否定できない事実を証する一助として、日寛が「観心本尊抄文段」の中で列示した「重々の相伝」のすべてが今日、公開資料によって説明可能であることを確認しておきたい。本尊抄文段は、先述のごとく六巻抄と並んで貫主直伝の秘書とされ、享保六(一七二一)年の夏、前年に猊座を降りた日寛が学僧四十余人の熱心な懇請を容れて行った「観心本尊抄」講義の内容である。日寛はいつにも増して万全の用意で講義に臨み、満講の後には祝賀の儀まで設けられたという(要8-258)。かくも重視せられたゆえんは、「観心本尊抄」に明かされる「人即法の本尊」こそ「蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一末法下種の正体」である、と日寛が考えたからに他ならない。法主職を辞して再び学寮に入った日寛が、唯授一人相承の当事者の立場から「蓮祖出世の本懐」たる本尊の深義を理論的に開示した講義の内容が本尊抄文段なのである。してみれば、同文段の冒頭に列挙された「重々の相伝」は、すべて唯授一人の金口相承の本尊義にかかわる門流の秘伝とみて差し支えない。
故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり(文段集443~444)。
金口相承の三大秘法義の理論的開示が完結した時代に生きるわれわれは、大石寺の血脈の承継者たらずとも、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる。まず「三種九部の法華経」とは「撰時抄愚記」に「これ則ち広・略・要の中には要の法華経なり。文・義・意の中には意の法華経なり。種・熟・脱の中には下種の法華経なり」(文段集221)と示されるごとく、文義意の法華経・種熟脱の法華経・広略要の法華経を総称した言葉である。また創価学会の『仏教哲学大辞典』第三版には日寛の「三種九部法華経事」の内容の一部が引用され、広く公開されている[xviii]。次に、「二百廿九条の口伝」とは「御義口伝」(全集708~803)のことをいい、「三大章疏七面七重口決」(全集870~872)「台当両家廿四番の勝劣」(全集875~876)「摩訶止観十重顕観の相伝」(全集872~875)はいずれも「本因妙抄」の中にある。「四重の興廃」は、釈尊の教えを爾前経・法華経迹門・法華経本門・観心の四重に配立したもので『法華玄義』に説かれるが、ここでは文底の立場から、三大秘法の妙法の興隆によって寿量文上の本門が廃れるという意を含んでいる。「三重の口伝」は迹門・本門・文底の三重秘伝、「宗教の五箇」は教・機・時・国・教法流布の先後のこと、「宗旨の三箇」は三大秘法の本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目、「文上文底」は法華経の寿量品を本果妙から読めば文上・本因妙から読めば文底となることをいう。また多少順番は前後するが、「本地垂迹」「自行化他」「応仏昇進」「久遠元初」はいずれも本仏と迹仏の区別を示すための概念で、日寛の様々な著述の中で論じられている。例えば、「末法相応抄」には「問ふ久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身とは其異如何、答ふ多の異有りと雖も今一二を説かん、一には謂く本地と垂迹、二には謂く自行と化他、三には謂く名字凡身と色相荘厳、四には謂く人法体一と人法勝劣、五には謂く下種の教主と脱益の化主云云」(要3-174)と示されている。さらに「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。「名同体異」は名が同じでも本体が異なる様を言い、日寛の「観心本尊抄文段」では、蔵・通・別・迹・本・文底の六種の釈尊が「名同体異の相伝」として示唆されている(文段集531)。反対に、「名異体同」は名を異にしても体が同じとの意で、例えば、釈尊と日蓮が名を異にしながら、ともに本因妙の教主としてその体を一にしていることをいう。「事理の三千」は「迹門理の一念三千」「本門事の一念三千」の区別から一重立ち入った法門、すなわち迹本の一念三千をともに理の一念三千として文底事行の一念三千を顕説する「本因妙抄」の文などを指すと考えられる。「観心教相」は、ここでは釈尊の仏法を教相、日蓮仏法を観心とする勝劣判を意味するのだろう。「本尊七箇口決・三重の相伝・筆法の大事」は、『富士宗学要集』第一巻の「御本尊七箇相承」(要1-31~33)「本尊三度相伝」(要1-35~42)の内容を指すものと思われる[xix]。「明星直見の伝受」は現在の「御本尊七箇相承」の中にあり、日蓮が日興に対し、自身が本尊の当体であることを明かした口伝相承とされている。最後の「甚深奥旨・宗門の淵底」は、具体的名目すら明かせぬ金口相承の秘義、という意味ではない。日寛は「文底秘沈抄」の中で、文底秘沈の三大秘法義をもって「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」の極理と規定している。日寛にあっては、「文底秘沈抄」に説かれた三大秘法義以上の「宗門の奥義」など存在しなかった。したがって、ここでいう「甚深奥旨・宗門の淵底」とは、その前に列挙された、三大秘法の本尊義にかかわる様々な教義概念を総括した表現なのである。
さて、以上のような教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する『御書全集』『富士宗学要集』『六巻抄講義』『仏教哲学大辞典』等を参照すれば、誰にでも可能である。この事実は当たり前のようにみえて、まことに驚嘆すべきことではなかろうか。現代は、唯授一人どころか、万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代なのである。この刮目すべき事態を到来せしめたものは、第一に日寛による三大秘法義の理論的開示、第二に堀日亨による富士門流の相伝書の出版公開、第三には戦後の創価学会による在家主体の日寛教学継承である。大石寺の唯授一人血脈相承は、日寛の時代から二百数十年を経てその中心的教義の理論的開示を完結し、もはや理論的公開の段階に入ったとさえ言えよう。
久遠名字の妙法の直達正観という成仏義を立てる大石寺門流では、法主や一部の高僧だけでなく、すべての信仰者に法体本尊の証得が可能であると説く。日寛は「当体義抄文段」の中で「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」は「本尊を証得するなり」と述べ、その証得の相を人法に分けて「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」と説き示している(文段集683)。
しかしながら半面、一般の門下僧俗が本尊を証得するには法主の介在が必要であるとも考えられる。日寛は「報恩抄文段」に「縦い当流と雖も、無智の俗男俗女は三重の秘伝を知らず」「無智の男女は唯本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る」(文段集322)などと述べ、富士の相伝教学に暗い当時の一般的在家信徒の状況を問わず語りに語っている。この場合、「三重の秘伝」を知らない「無智の俗男俗女」が自らの判断で「唯本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る」ことは不可能であるから、三大秘法義を了解する法主や、その意を体した僧侶の信仰指導が必要となる。当時の宗門信徒の中には、金沢の福原式治等のごとく、折伏弘通に励みながら宗義研鑽にも極めて熱心な者が稀にいたが、それでも日寛から法門の曲解を間接的に指摘されていたという[xx]。いわんや信仰の対境となる曼荼羅本尊の書写やその是非の判定等に至っては、ひたすら金口相承の法主に頼るしかなかったと言えよう。すなわち大石寺門流では、すべての信仰者に本尊証得の道が開かれているとはいえ、実際には血脈付法の法主の介在が大前提となっていたのである。
ところが現代のように、金口相承の三大秘法義の理論的公開がなされる段階に至ると、事情はかなり違ってくる。現代の在家の人々は、日寛の頃のような相承法門に暗い「無智の俗男俗女」ではない。むしろ、日寛の六巻抄を座右に置いて日蓮の祖書を日夜朝暮に学習し、三大秘法の本尊を世界に流布せんと主体的に励む人々なのである。彼らは法主の教導がなくとも、門流秘伝の三大秘法義に基づく本尊証得の修行のあり方を知り、自ら実践できる。
そして帰命依止の対境たる曼荼羅本尊に関しても、法主の介在は実質的に不要化している。金口相承の三大秘法義を把握したうえで、日蓮と同じ信仰に生きる現代の門下僧俗は、文永・建治・弘安年間に顕示された、すべての日蓮の本尊を戒壇本尊の意義に通ずる本尊として拝することができる[xxi]。また歴代法主の本尊はすべて戒壇本尊の書写であり、戒壇本尊の「分身散体」としての意義を持つとされるが、現代の門下僧俗ならば、歴代書写の本尊のうちで誤った本尊を見極めることすらできるだろう。それを可能にしたのは、三大秘法義の理論的公開にともなう、本尊相承書の出版公開である。
少し古い事例となるが、六〇世の阿部日開は、昭和三(一九二八)年六月に唯授一人相承を受けた後、本尊書写の際に「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき本尊の讃文を誤って「仏滅度後二千二百二十余年」と書いてしまい、宗内の僧侶たちから問い質された末に「ただ漫然之を認ため何とも恐懼に堪へぬ」と謝罪させられたという。当時すでに出版公開されていた「御本尊七箇相承」には「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(要1-32)との条目がある。そうしたことから、相承なき平僧たちが血脈付法の法主の本尊誤写を責め糾して謝罪させる、という異例の事態へと発展したのである。平僧たちがかくも自信をもって法主の誤りを糾弾できたのは、彼らに大石寺の血脈相伝たる三大秘法義の知識があり、なおかつ「御本尊七箇相承」が出版公開されていたからである。昭和初期に起きた六〇世・阿部日開の本尊誤写事件は、本尊に関する権能を法主が独占できない時代の到来を示す、象徴的な事件であった。
さらにまた、われわれは、現代において法主による本尊書写の必要性が失われている、という点を決して見落としてはならない。大石寺門流の僧俗が寺院や家庭に安置している本尊は、通常は、戒壇本尊を書写した歴代法主の直筆本尊(常住本尊と呼ばれる)か、法主の直筆本尊を版木や写真印刷によって複写した本尊(形木本尊と呼ばれる)か、のどちらかである。このうち、複写の形木本尊は伝統的に仮本尊とみなされており、信心決定の後には、法主直筆で授与書きのある常住本尊に取り換えるのが慣わしとなっていた。しかしながら戦後、創価学会の大折伏により、累計で数百万体にも達する本尊下付が行われるようになると、すべての信心決定者に法主直筆の常住本尊を授与することは完全に不可能になった。そこで、漸く印刷の形木本尊を正本尊とする信仰形式への移行が進み、ついには六六世・日達の代に「特別御形木御本尊」の制定をみたのである[xxii]。特別形木本尊とは、写真印刷の形木本尊でありながら、実際には法主直筆の常住本尊と同格に扱われる曼荼羅本尊のことを言い、普通の写真印刷の形木本尊よりも一層荘厳さの増したものである。江戸期から存在する版木の形木本尊は、版木を使ったことが一目でわかるほど質が劣り、仮本尊とみなされても仕方ないところがあった。しかるに現代の写真印刷の形木本尊は、印刷技術の飛躍的進歩によって直筆かと見紛うばかりの鮮明度を持ち、表装の美観も格段に増している。それゆえ現在では、通常の形木本尊でも充分に荘厳であり、特別形木本尊になると直筆の常住本尊と何ら変わらぬ威厳を保っていると言ってもよい。しかも現代における写真印刷の原本は半永久的に保存が可能であり、今後、新たな特別形木本尊の原本を法主に依頼する必要もない。すでに戦前、堀日亨は「化儀抄註解」で「宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主御一人の手に成ることを得んや、或は本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか」(要1-113)と予測したが、その予測は百年を待たずして基本的に的中したのである。ここに、法主による本尊書写が不可欠とされた時代は終わりを告げたと言える。
それはまた、曼荼羅本尊の体相や筆法について教義的に理解できる法主の必要性が完全に消失したことをも意味していよう。もとより曼荼羅本尊の体相は、その教義解説の有無に関わらず、万人の眼に映じている。あえて言えば、本尊書写の際に宗開両祖や先師の本尊の体相を模写し、門流僧俗はその摸写本尊を宗門独自の三大秘法観に基づきつつ信仰する、というあり方でも信仰上は十分に事足りるのである。そこに加えて、現代では本尊書写それ自体が実質的に不要化し、唯授一人の本尊相承書とされてきた「御本尊七箇相承」等も出版公開されている。ゆえに今日、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義を唯授一人で相承することの信仰上の意義は完全に消失した、と言わざるを得ないのである。
以上のごとく、現代の門下僧俗は法主の教導によらずとも、自ら正境たる三大秘法の本尊を見定め、久遠名字の妙法を唱えて直達正観の本尊証得を果たし、直筆本尊と同等の形木本尊を授与し流布しゆくことができる。換言すれば、民衆の本尊証得における法主の介在が不要化した段階が現代であり、唯授一人相承がその役目を終えた時期として、後世の人々に認識されていくであろう。
例えば、法主の内証の尊厳性を殊更に強調する現在の大石寺宗門は、唯授一人の法体相承を本尊証得の次元で捉え、しかも本来は万人に開かれるはずの本尊証得を法主一人に限定しようとする。彼らの主張は、「唯授一人のご相承を法体相承ともいいますが、この法体相承を受けられるがゆえに、御法主上人のご内証には、日蓮大聖人のご魂魄たる「本尊の体」が具わっているのです」といったものである[xxiv]。ここにみられる、〈法体=日蓮の魂魄=本尊の体〉という論理は、宗門秘伝の人法体一の法体本尊義であって誤りとは言えない。しかしながら、日応のいう「法体相承」を「本尊の体」の授受とすることや、その法体授受を「御法主上人」に限定して考えることは、どうみても解釈的逸脱である。
まず法体相承を「本尊の体」の授受とみる論は、日応のいう法体相承が現実存在としての戒壇本尊の護持継承を指していた、という事実に反している。『弁惑観心抄』の中に「別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり」との記述があるように[xxv]、日応は、現実に存在する戒壇本尊が唯授一人で護持継承されてきたことを指して「法体相承」と称したのである。ゆえに、この『弁惑観心抄』の文の直後には、日興が日目に一宗の統治管領を委ねた「日興跡条々事」の中の一条「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を授与す 本門寺に懸け奉るべし」(歴全1-96)が略して引用されている[xxvi]。また補足的に言うと、日応は『法の道』に発表した論文中で「本宗は宗祖大聖人の血脈法脈を継承し宗祖大聖人の大本懐たる本門戒壇の大御本尊を護持し」「彼等の宗派では宗祖大本懐の本門戒壇の大御本尊を護持しないではないか又た宗祖直授相伝の血脈相承がないではないか」「本宗固より宗祖大聖人正統血脈の法系を承継し宗宝の唯一則ち宗祖大本懐本門戒壇の大御本尊を護持し奉る」などと述べている[xxvii]。そこには、血脈相承と本尊護持をもって大石寺宗門の二大偉跡と誇る日応の信念が看取されよう。かかる信念が、『弁惑観心抄』で金口相承(血脈相承)と法体相承(本尊護持)の並列的顕揚という形をとって現れた、とみることは必ずしも不当ではない。さらに日応には、戒壇本尊を師資相承の法体とする大石寺の血脈付法の歴史を、皇室における神器の継承に譬えた言説もみられる[xxviii]。日応のいう法体相承は、天皇家の神器の継承にも譬えられるのであり、その意味はやはり「宗宝の唯一」たる戒壇本尊を護持継承することにあったとみるしかない。
とすれば、日応の法体相承論を用いて法体授受を歴代法主の内証だけに限定することはできない、という道理になろう。そもそも教義上から言えば、法主の意向にかかわらず、三大秘法の本尊を信じて題目を唱えるすべての人に「本尊の体」の証得は可能である。法主が「本尊の体」を独占し、それを書写本尊に分与することで功力が生じ、信者の本尊証得も適う、とするならば、これは非仏教的な発出論、一元的実体論になってしまう。日寛教学に基づくならば、本尊の功力は信者の信力・行力に応じて「一即多」元的に発現するはずであり、それでこそ法界遍満の妙法への信仰たり得るのである。法主の特別性は、本尊証得の独占などではなく、金口相承によって本尊の深義を知り、そこから人々に成仏への正しい信仰環境を提供するところにのみある。しかしその特別性も、すでに論じたように、三大秘法義の理論的公開や本尊相伝書の出版公開などによって、今は実質的に消失しているのである。
ただ、ここで誤解なきよう念記しておくが、日寛教学を採用するかぎり、末法の教主としての日蓮の特別性だけは決して消失しない。日寛教学において、久遠元初の完全なる悟り(境智冥合)の智慧の所持者は日蓮一人に限定されるからである。「当体義抄文段」では、信仰実践の次元から久遠元初の境智冥合が論じられ、「「知」の一字は能証の智、即ちこれ智妙なり。以信代慧の故に、またこれ信心なり」(文段集698)と示されている。日寛は、久遠元初の自受用身が悟った境智冥合の智慧を、日蓮以外の信仰者が得ることは認めない。しかしながら信仰の強さをもって本仏の智慧に代える(以信代慧)ならば、末法の凡夫も境智冥合の成仏が適うと説くのである。
加えて日寛は、「取要抄文段」で無作三身の仏について論じ、そこに三段階の立てわけを示している。すなわち、理論的には一切の衆生は無作三身であるが、実際には無作三身の真仏を信ずる日蓮の弟子檀那こそが無作三身であり、さらに言えば日蓮一人だけが究竟果分の無作三身である、と説いている。
当に知るべし、蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖上人のみ究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但これ蓮祖大聖人の御事なり(文段集571)。
日寛はここで、顕教の「因分可説・果分不可説」という伝統的立場から無作三身の仏を「因分」と「果分」に分け、説明不可能な仏果の境地の究極である「究竟果分の無作三身」は「但是れ蓮祖聖人のみ」である、と論断している。「究竟」という言葉を多用することにより、日寛は、完全なる了解としての悟りが日蓮一人に限定され、日蓮の門弟はあくまで修行段階(因分)における一分の了解を得るにとどまる、という点を強調したかったのだろう[xxix]。
以上に明らかなごとく、三大秘法義の理論的公開や本尊相伝書の出版公開が法主の特別性を消失せしめると言っても、それが本仏日蓮の特別性の否定につながるとは考えられない。現代の門下僧俗は、本仏日蓮に対する師弟・能所の筋目を修行の原動力としながら、水平的性格を持った信仰実践に励み、究極的には本尊証得を通じて内証面での日蓮との一体化を目指すのである。そこには、真理の平等性と本仏の至高性とが融合した、真の意味での人法体一の信仰世界があるように思われる。
われわれはさらに、金口相承の三大秘法義の理論的公開が、大石寺門流が伝統的に定めてきた仏・法・僧の三宝の中の僧宝の解釈に影響を及ぼすことも指摘しておかねばならない。
大石寺門流の三宝論は日寛が確立したもので、「当流行事抄」に「久遠元初の三宝」として論じられ、「久遠元初の仏宝」は「蓮祖大聖人」、「久遠元初の法宝」は「本門の大本尊」、「久遠元初の僧宝」は「開山上人」、と規定される。そしてこの久遠元初の三宝は、末法今日に出現して衆生を利益する。すなわち日寛は、法華経本門の説相から導かれる「在世の三宝」と区別すべき「末法出現の三宝」「末法下種の三宝」として、久遠元初自受用身即日蓮(仏宝)・戒壇本尊(法宝)・血脈付法の二祖・日興(僧宝)の三を立てる。
また日寛は、末法下種の三宝のうち僧宝に関して、その意義のうえから対象範囲を日興以外にも拡大できることを示唆している。「当家三衣抄」では「南無仏・南無法・南無僧とは」と記された後、門流の三宝が説明され、僧宝について「南無本門弘通の大導師・末法万年の総貫首・開山・付法・南無日興上人師、南無一閻浮提座主・伝法・日目上人師、嫡々付法歴代の諸師」と記されている(要3-238)。ここでは、「伝法」「嫡々付法」という僧宝の意義を持った存在として、日目をはじめとする歴代法主が挙げられている。さらに「三宝抄」には「吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云」(歴全4-390)と記され、末法下種の僧宝として日興以外に「日目・日道代々」の歴代法主、そして「門流の大衆」=門流の僧侶全般までが列記されている。
つまり、大石寺門流における末法下種の僧宝は、日蓮から三大秘法の相承を受けた日興をもって随一とするが、それ以降を考えると、歴代法主や門流の僧侶たちも僧宝の一分を担うものとされるのである。日寛の僧宝論に通底しているのは、僧宝たる資格が「開山」「座主」「歴代」等の立場ではなくして「付法」「伝法」「嫡々付法」の功績によって与えられる、とする論理である。このことは、「当流行事抄」に日興の僧宝たるゆえんとして「開山上人の結要伝受の功」(要3-214)が挙げられ、「三宝抄」では「付嘱伝授は即ち是れ僧宝也」(歴全4-365)「金口相承は即ち是れ僧宝也」(歴全4-372)と強調されるところからも明白である。
その点を踏まえて言えば、金口相承の三大秘法義が六巻抄等の出版によって広く理論的に公開され、日寛の時代には唯授一人の秘書とされた「御本尊七箇相承」等も出版公開され、しかも曼荼羅本尊の体相や筆法について理解する法主の信仰上の意義が消失した現代において、伝法の担い手は法主や門流の僧侶にとどまらず、在家の信仰者にまで及ぶと考えなければならない。「三宝抄」において僧宝の中に在家者が加えられなかった理由は、前述のごとく、日寛の頃の一般的在家者が「三重秘伝」に触れる機会のない「無知の俗男俗女」だったからである。日寛の時代の在家像によって、三重秘伝の義理に精通した現代の多くの在家者の存在価値を推し量ろうとするのは甚だしい時代錯誤となろう。五六世・日応は、唯授一人の金口相承に関して「優婆塞・優婆夷(在家の男女のこと=筆者注)に付するも何の妨げか之れあらん」(研教27-514)とも述べている。元々、大石寺門流における金口相承の担い手は在家・出家にわたる可能性があるのだから、現在の状況を鑑みて在家者に伝法者たる意義を認めるのは当然である。
また、かつては法主のみが奥義を独占し、能化の立場からその一部を門流の僧侶に開陳する、というあり方だったため、僧宝の一分の中にも「法主が上」「大衆が下」という位階が生じていた。しかし現代は、金口相承の三大秘法義が理論的に説明された六巻抄を、誰でも直接に手にとり、学び得る時代である。したがって久遠元初の僧宝の末法出現と規定される日興は別にして、現代の僧宝の一分に〈法主→一般僧侶→信徒〉といったヒエラルキーを考えてはならず、どこまでも伝法の功績に即してその軽重がはかられるべきである。もちろん、伝法の任を果たさない法主は僧宝の一分から除外されることになる。大石寺門流の信仰規範とされる「日興遺誡置文」には「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(全集1618)という条目があって、法主の有謬性が明記されている。この条目のあるかぎり、大石寺法主に僧宝の意義を固着せしめることはできない。
ところが現宗門に目を転ずると、相変わらず法主を能化、大衆信徒を所化とみる立場から、法主に僧宝としての特別な地位を与えようと腐心しているようにみえる。宗門独自の三大秘法義が金口相承の秘伝とされ、いまだ理論的に公開されなかった時代ならば、建前上、法主以外に伝法の担い手はいないので、門流全体の願望としてそれも理解できよう。しかしながら現代の状況下で、法主に特別な僧宝の地位を与えることは、僧宝たるゆえんが伝法の功績による、とした日寛の論理の否定に通じてしまう。のみならず、信仰対象としての三宝義の破壊にもつながりかねない。
具体的に示してみたい。現宗門では三宝に一体・別体・住持の三種類を立てる。それによって、住持の僧宝としての歴代法主の尊厳性を浮かび上がらせ、その尊厳性を三宝一体の立場から究極化するのである。ここで問題なのは、僧侶崇拝の論理としての「住持の僧宝」の強調であろう。
大石寺門流では、江戸時代の檀家制度が定められた頃、それまでにはなかった三宝論の強調が始まった。小林正博氏によると、「まさに各寺院が檀家制度を徹底する時期、すなわち寛文九年(一六六九)の宗門改め、寛文十一年(一六七一)の宗旨人別帳作成直後の一六八〇年に法主となった日俊」が三宝論、なかんずく僧宝論を強調し始めたという[xxx]。日俊は「初度説法」の中で「住持の僧宝は末法の宝也。尤も敬ひ尊重すべき也」「末代真実の僧宝は本門寿量本化の末流日興の末弟に限るべき也」(歴全3-81)と述べ、住持の僧宝論を用いるとともに、「日興の末弟」たる歴代法主以下の僧侶を「僧宝」として崇敬すべきことを檀家に説き示した。日俊における住持の僧宝論は、檀信徒に現実の僧侶を崇敬させ、檀家制度の定着をはかるための思想装置として導入された節がある。ちなみに一体三宝・別体三宝・住持三宝という論の立て方は仏教一般の思想であり、このうち住持三宝とは「末代までも世に保存されてとどまる三宝」[xxxi]をいう。「住持」という言葉からは観念論的な僧宝ではなく、現実的な僧行の人が連想されよう。加えて「住持」は寺院住職を指す言葉でもあるので、僧侶崇拝の根拠づけとしてはまことに好都合と言える。いずれにしろ、檀家制度の定着とともに、大石寺門流では僧侶崇拝の論理としての三宝論が唱えられていった[xxxii]。三一世・日因の代になると「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」「僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし」(要1-192)などとして、ついに僧侶崇拝が三宝一体の論理をもって徹底されるに至っている。われわれは、現宗門の三宝一体論がこの日因の主張と同一の思想構造を持っていることに、いささか驚きの念を禁じ得ない。現宗門の法主である阿部日顕氏は、平成九(一九九七)年八月に行われた「全国教師指導会」で、日寛の「三宝抄」の一文に関連して「創価学会が、時の法主を「尊信の対象ではない」などと貶めることは、三宝一体の深義を指南された大聖人、日寛上人に背く大謗法、と言うべきなのです」と述べている[xxxiii]。阿部氏の主張は、僧侶崇拝を根拠づけるために三宝一体を説くという点で、「当宗出家の当体即仏法僧三宝なる」という日因の論と大同小異である。
そのうえで、阿部氏が「三宝抄」の三宝一体義を用いて法主崇拝を高唱することは、看過できない逸脱である。日寛の「三宝抄」では、次のように三宝一体の意義が説き示される。
問う、三宝に勝劣有りや。答う、此れ須く分別すべし。若し内体に約せば実には是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり故に一念三千即自受用身と云い、 又十界互具方名円佛と云うなり。亦復一器 の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為すが故なり。故に法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する也(歴全4-392~393)。
日寛によれば、大石寺門流の三宝論は、外相の面では法・仏・僧の順に勝劣を定めているが、内体では三宝一体と説く。この三宝論を根拠に、阿部氏の意を汲む現宗門は、唯授一人の僧宝の意義を有する法主が戒壇本尊(法宝)や本仏日蓮(仏宝)と本質的に一体である、と主張するのである。しかし、この「三宝抄」の文で言われる「僧」とは、信仰対象として曼荼羅本尊の傍らに「安置」される僧宝、すなわち末法下種の僧宝である日興のことに他ならない。それゆえ阿部氏のごとく、信仰対象としての三宝一体を論じた日寛の文を盾に、法主への尊信を説くなどは解釈的な逸脱、混乱も甚だしいと言うべきである。
ただし、信仰対象という見方から離れ、伝法の歴代法主の姿に三宝一体に通ずる尊厳性を見出すというのならば、宗門古来の伝統のうえから容認すべき面もあろう[xxxiv]。だがその場合でも、法主のみに三宝一体に通ずる尊厳性を認めるような主張は、今日の実情に反している。現代では、出家も在家も等しく金口相承の三大秘法義を信解し、ともに公開されている本尊相伝書を読み、主体的に伝法の任を果たしている。否、伝法と弘法とが表裏の関係にあるとすれば、現代の実質的な伝法の主体者は、客観的にみて、世界に三大秘法を弘宣した創価学会である。三宝一体に通ずる尊厳性が認められるべきは、むしろ在家の創価学会員の方であろう。もし宗門がここに至っても、檀家制度の残滓を引きずりながら「三宝一体だから、時の法主を尊信せよ」などという硬直化した態度を崩せないならば、伝法の功績をもって僧宝たるゆえんとした日寛の論理を実質的に否定したのも同然である。
現代の大石寺門流は、久遠元初の僧宝・日興という基本信条は墨守したうえで、能力論的立場を前面に押し出した僧宝論を確立すべき段階に立ち至っているのである。
結 語
かつて大石寺門流の僧俗の信仰にとって、唯授一人相承は神聖にして不可欠な意義を持っていた。歴代法主の唯授一人相承のおかげで、信仰の根本対象たる戒壇本尊は護持され、僧俗の信仰信条を規定する宗門独自の三大秘法義が継承され、本尊書写の際に必要となる種々の教義も伝承されてきたのだ、と門流内ではしばしば主張されてきた。
けれども、その主張が歴史的事実に符合するかどうかはさておき、現代の大石寺門流に関しては何よりも事情が一変したことを指摘しなければならない。すなわち二四世の日永以降、宗門の相伝教学が宣揚され始めた中で、唯授一人の金口相承とされた三大秘法義を理論的に開示した日寛教学が現れ、堀日亨を中心とする近代宗門の出版事業を経て、戦後になると日寛の六巻抄や門流秘伝の相伝書類を民衆レベルで研鑽する運動が創価学会によって大規模に繰り広げられた。この結果、現代の大石寺門流では、三大秘法義が一般公開されるという状況が現出し、僧俗の信仰にとって法主間の金口相承による三大秘法義の継承はおよそ重要な意味を持たなくなった。
他方、在家の信仰者の激増や印刷技術等の飛躍的進歩によって、法主による化他行としての本尊書写は[xxxv]、実質的にその役割を終えた。それにともない、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する様々な教義解説も、宗門僧俗の信仰にとって絶対不可欠なものとは言えなくなった。しかも現代では、日寛が唯授一人相承の秘書とみなした「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」が出版公開されている。かりに本尊義の相承の中に未公開の内容があると仮定しても[xxxvi]、いまやそれが必ずしも唯授一人相承の必要性に結びつかないような時代に突入しているのである。
そしてこのように、三大秘法義が理論的に一般公開され、本尊相承の秘書も出版公開され、法主による本尊書写が実質的に不要化した現在の状況下にあっては、戒壇本尊の護持を法主一人に委ねる必然性もなくなったと考えるしかない。むしろ、教団全体で戒壇本尊を護持する方向に進むのが自然な成り行きであろう。
結論として、現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義は、あらゆる面で消滅したのである[xxxvii]。かかる事態の到来は、在家信仰者が法主僧侶の介在抜きで本尊証得に達することを可能にし、法主の法体相承が戒壇本尊の護持継承であることを鮮明化し、三宝論では僧宝の日興に連なる意義を能力論的に考える視座を引き出したと言えよう。冒頭の血脈論争の話題に戻ると、現代はまさに「信心の血脈」の如何が信仰上の正否を決する時代なのである。現宗門は、今の大石寺門流の信仰状況が中近世の頃のそれとは劇的に変化している、という点にあまりにも無自覚である。その滑稽さは喩えて言えば、髷を結い、刀を差した侍集団が社会から隔離されたまま現代に生き残り、江戸時代の士農工商さながらの論理でグローバルな大企業に武家への絶対服従を強要し、聞かぬとみるや「切捨て御免」と騒ぐようなものであろう。創価学会と日蓮正宗との教義論争は、じつは時代認識をめぐる論争であるように思われてならない。肉食妻帯の世俗的生活を送り、寺院会計から月々の給与や賞与を受け取って私有財産を形成し、法務の面では儀式法要の執行を専らとする現今の宗門僧を果たして「出家」と認めるべきなのか、といった現実的疑問も含め、われわれが時代認識の問題に関心を持つことは、かえって学会と宗門の論争の本質に迫る近道なのである。
註
*『日蓮大聖人御書全集』(創価学会、一九五二年)、『富士宗学要集』(全一〇巻、創価学会、一九七四年~一九七九年、初版は一九五五~一九五八年)、『日寛上人文段集』(聖教新聞社、一九八〇年)、『研究教学書』(全三〇巻、富士学林、一九七〇年)、『日蓮正宗 歴代法主全書』(全七冊、大石寺、一九七二年~一九八八年)からの引用・参照箇所は、それぞれ「全集」「要」「文段集」「研教」「歴全」の字とともに文中に巻数(必要な場合)と頁数を示し、丸括弧で括った。漢文体の引用文については、原則的に筆者が読み下し文に直している。
[i] 池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、一九九六年、一三八頁。
[ii] 池田大作他『御書の世界』第二巻、聖教新聞社、二〇〇四年、二二六頁。
[iii] 大石寺門流では、日蓮が図顕した数多の曼荼羅本尊のうちでも、同寺に秘蔵される弘安二(一二七九)年十月一二日図顕の「本門戒壇の大御本尊」をもって究極最高の本尊と規定している。
[iv] ちなみに現宗門の阿部日顕氏は、一七世の日精が著した「家中抄」の「日道伝」にある「法を日道に付嘱す所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論せば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず」(要5-216)云々との記述を取り上げ、ここにいう「内用」「十二箇条の法門」こそが非公開の唯授一人相承の法門・法体である、と主張している。しかし当文については堀日亨が「本師の弁証は精義ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」(研教6-198)と天註を加えているように、史料的根拠を欠く日精の主観的臆説と考えられるので、本文中に引用することは避けた。
[v] 松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』大成出版社、一九六八年、九五頁。この他、日寛の「三宝抄」にも「一大事の秘法に於ては尚自余の五人に授与せず何に況や其れ已下をや。唯日興一人に譲り玉ふ故に唯授一人の相承と名づく」(歴全4-385)との記述がある。
[vi] 本稿では、宗宝としての戒壇本尊の譲渡を含む法主間の相承の全体を「唯授一人相承」と称し、そのうちで特に口頭や文書による教義の伝授を指して「金口相承」と呼んでいる。「金口」とは仏の口、あるいはその所説をいう。
[vii] 現宗門は、日精が「日蓮聖人年譜」の中で日辰の本尊論を破折した、との立場をとるが、これはかなり強引な史料の誤読である。詳細は稿を改めて論じたいが、同年譜における日精は、「法華経を以て本尊と為す」べきだ、として法本尊の義に偏する「或抄」に対し、惣体の本尊を大曼荼羅、別体の本尊を人(久成の釈尊)と法(事行の南無妙法蓮華経)に分かつ日辰の義をもって反駁している(要5-118)。しかしながら、日辰の本尊義では、大石寺門流が正義とする人法体一の法本尊の意義が鮮明にならない。ゆえに堀日亨は、日精が主張した日辰そのままの本尊論の箇所に、「総別は法の本尊の立て方に付て本師未だ富士の正義に達せざるなり」(同前)との頭注を付している。また「久成の釈尊」を人本尊とする日辰の義の採用は、日蓮本仏論の否定にも通ずる。よってそこにも、「此下辰師の造釈迦仏の悪義露見せり迷ふべからず」(同前)との日亨の頭注がみられるのである。
[viii] 当該引用文の後には、「予」の答えとして「吾に於いて害無きが故に酬いざるか」ともあるが、それは、日辰教学の影響を受けた日寛以前の宗門先師に対する、弟子分としての配慮表現であったと思われる。というのも、日寛は「当家法則文抜書等」の中で、日精が日辰流の本尊論や修行論を展開している箇所を抜書し、そこに「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の義なり。故に本意に非ざるなり云云」「是れ又他解なり。正義に非ざるなり」(研教9-757、763)といった婉曲的批判を付記しているからである。この付記は、少なくとも日精が日辰の「他解」を他解として明示しなかったことに対する、日寛の否定的感情を表しており、日寛が大石寺門流における日辰教学の弊害を憂慮していた、という一つの証左となる。
[ix] 釈尊と日蓮との名異体同論について、学頭時代の日寛は「原始抄」の中で次のごとく説明している。「謂く既に本門の教主釈尊は則ち本因妙の教主也、本因妙の教主釈尊とは即是れ蓮祖聖人の御事也、故に血脈抄に云く本因妙の教主日蓮云云、是を名異体同の本尊と習ふ也、名異とは釈尊日蓮其の名異なるが故に体同とは倶に本因妙の教主なるが故也」(研教10-228)。
[x] 大石日応『弁惑観心抄』大日蓮編集室、一九七一年(初版は一八九四年)、一五八頁。
[xi] 日永以外に、日寛の人法体一論に影響を与えた可能性がある法主として、日寛に相承した二五世・日宥の存在を考えることもできる。日宥は「本尊抄記」の中で「人法を得法人を得て互具の本尊也」「所詮在世脱益色荘教相理の一念三千の本尊を簡んで末法下種文底秘深の事の一念三千の人法一体の本尊を顕す也」(歴全3-378、384)などと記し、人法体一の本尊義を強調している。しかしながら「本尊抄記」は、述作年が不明なうえに、日寛教学との共通性が余りに目立つ文書である。また日宥は、日寛より四才年下で、日寛の死後も三年間存命だったことが『富士年表』からうかがえる。とすれば、逆に日宥の方が日寛に影響されて人法体一論を「本尊抄記」に展開した可能性もあるわけであり、両者の思想的交渉関係について断定的な見解は提示できない。
[xii] 『日寛上人伝』日蓮正宗宗務院教学部、一九七五年、五一頁。
[xiii] 堀慈琳『日蓮正宗綱要』雪山書房、一九二二年、六七~六八頁。
[xiv] 以上の記述のうち、大石寺関係の出版事情については『明治以降 宗内書籍雑誌総目録』(和党編集室、一九七一年)を参照した。
[xv] 「堀上人に富士宗門史を聞く(一)」『大白蓮華』第六六号、一九五六年一一月、二一頁。
[xvi] 戦後の日亨が創価学会の支援を受け、『富士宗学要集』の再刊や『御書全集』の編纂刊行に取り組んだ頃の実際の状況を知るには、当時、日亨と寝食を共にしつつ研究助手を務めた渡辺慈済氏の証言(『日蓮正宗 落日の真因』第三文明社、二〇〇〇年、八二~九〇頁)が参考になる。
[xvii] 『年譜・牧口常三郎 戸田城聖』第三文明社、一九九三年、三七〇頁。
[xviii] 『仏教哲学大辞典』創価学会、二〇〇〇年、五七三頁。
[xix] 日寛は「重々の相伝」の中で、現在の「御本尊七箇相承」の追加分三箇条の中にある「明星直見の伝受」を「本尊七箇の口決」とは別に列挙している。ここから、日寛は現在の「御本尊七箇相承」における本文七箇条と追加分三箇条とを切り離して考えていた、ということがわかる。また、そうだとすれば、追加分三箇条のうち「明星直見の伝受」以外の二箇条「一、仏滅度後と書くべし…」「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべし…」についても、何らかの名称がつけられていなければならず、それが「筆法の大事」にあたると考えられる。なお身延山久遠寺版『本尊論史料』では「又本尊書写の事…」からが追補分とされているので、そこからが「筆法の大事」にあたるとの見方も成り立つ。さらに「三重の相伝」については、文脈上、本尊に関する三重の相伝という意であるから、該当する本尊相承書として現在の「本尊三度相伝」を挙げるのが至当である。昭和六〇(一九八五)年発行の創価学会教学部編『新版 仏教哲学大辞典』では「三重の相伝」が「本尊三度相伝」のことであると明記されているが、当時の宗門はこの仏哲の見解に特に異議を唱えていない。
[xx] 前掲、『日寛上人伝』、六四~六五頁。
[xxi] 『日蓮正宗要義』(日蓮正宗宗務院、一九七八年、二〇一頁)には「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶対妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」という記述がある。本稿の考察に基づけば、現代では「本尊の深義」の中核たる三大秘法義が理論的に公開されているので、この『日蓮正宗要義』の記述は「時の法主上人の認可せられるところ」を「われわれが金口相承の三大秘法義を信解するところ」に変更すべきであろう。
[xxii] 「特別御形木御本尊」は、大石寺から創価学会に下付され、寺院ではなく学会の会館等で授与式が行われた。『聖教新聞』の報道に基づけば、初の特別形木本尊の授与式は、昭和五〇(一九七五)年一二月一四日、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で行われている。
[xxiii] 前掲、『弁惑観心抄』、二一一、二一二頁。
[xxiv] 日蓮正宗法義研鑽委員会編『創価学会のいうことはこんなに間違っている』大石寺、二〇〇〇年、一八頁。
[xxv] 前掲、『弁惑観心抄』、二一二頁。
[xxvi]「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」という表現の解釈において、「宛てる」の字義は重要である。『広辞苑』第五版(岩波書店、一九九八年、六〇頁)によると、「宛てる」には「(仕事や役目などを)担当させる。割り当てる。指名する。…に向ける」という意味がある。したがって「日興が身に宛て給はる」云々とあるのは、日興が日蓮から護持の役目をその身に担当させられたところの「大御本尊」、という意味にとれる。
[xxvii] 『法の道』日蓮宗富士派法道会、明治三六(一九〇三)年三月、五、六、八頁。
[xxviii] 『法の道』日蓮宗富士派法道会、明治三六(一九〇三)年四月、一七~一八頁。
[xxix] 内証面では師弟の一体性を説きながら、修行面では師を本果、弟子を本因に配する、という考え方は、日寛の師の日永にもみられ、門流の伝統的な信仰信条であったように思われる。日永は、金沢信徒の石川儀兵衛に宛てた書状中に「妙法五大が本有常住の五大なり。此常住と我等が五大も体一なりと信心して修行すれば必ず常住不滅の五大に与る。是を大聖人は導師となり、我等は弟子となる故に、弟子は本因妙修行なり。師匠は常住が面に顕す故に本果となる」等と記している(歴全3-362)。
[xxx] 小林正博『宗門問題を考える』第三文明社、一九九一年、一三〇頁。
[xxxi] 中村元『佛教語大辞典』東京書籍、一九八一年、六六五頁。
[xxxii] 付言すると、日寛の「三宝抄」の中でも「住持三宝」は論じられている。けれども日寛の場合は、「久遠元初の三宝末法今時出現し玉ふ」(歴全4-371)という観点を強調するところが特徴的である。そこにおける住持の僧宝は、末法出現の意義を持つゆえに、本質的には久遠元初の僧宝の出現たる日興のみを指すと考えてよい。もちろん、日寛は同抄で「末法下種の僧宝」の意義の中に歴代法主や門流の一般僧侶も含めているが、法主以下の僧侶に末法出現の意義を付与するのは行き過ぎであるから、あくまで敷衍的な話とすべきである。このように、日寛における住持の僧宝論は久遠元初の僧宝たる日興と歴代以下の門流僧侶とを質的に区別するといえ、日俊等のごとく僧侶崇拝を要求する意図などなかったことが理解される。
[xxxiii] 阿部日顕『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』日蓮正宗宗務院、一九九七年、二一八頁。
[xxxiv] 伝法の法主のうちに三宝一体に通ずる尊厳性をみる、という宗門古来の伝統は、例えば、法主に対する大衆の合掌礼などに現れていよう。また「御本尊七箇相承」に「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(要1-32)との条目があるのは、本尊書写を如法に行う法主の振舞いに「代々の聖人悉く日蓮」の姿を認める意であるから、本尊書写の文脈における法主の尊厳性を説いた文と言える。けれどもそれらは、信仰対象とは別の、あくまで法主の伝法の働きに即した相対的尊厳性であると言わねばならない。「日興遺誡置文」に記された「仏法に相違」する法主には、三宝一体の意義など一分たりとも認めようがない。かかるゆえに本稿では、伝法の法主の尊厳性を「三宝一体に通ずる尊厳性」と表現し、読者の注意を喚起したのである。
[xxxv] 日寛は「観心本尊抄文段」で、門流における「受持」が法華経法師品に説かれる五種の修行(受持・読・誦・解説・書写)を総するとしたうえで、宗門の「受持が家」の書写行について「本尊書写豈化他に非ずや」と述べている(文段集486)。宗門法主の本尊書写は「受持」という因分の位における化他行であって、果分の神秘的行為ではない――これが日寛の見方であった。法主の本尊書写は神秘的な法魂の書写である、などとする論は、この日寛の本尊書写観によれば否定されるしかないだろう。
[xxxvi] この点に関連して、六六世・日達が大勢の宗門僧侶の前で「堀上人が全部出してしまったので、特別なものは何もない」と語った、という証言もあることを付記しておく(日蓮正宗改革同盟「血脈、戒壇に関する日顕猊下の妄言を破す」『大白蓮華』第五〇六号、平成五(一九九三)年一月、四二頁を参照)。
[xxxvii] 念のために言えば、唯授一人相承の内容として化儀上の相伝も考えられる。しかし、化儀はそれ自体が開示性を持つうえに、時代的変遷もみられる。念珠の相伝等が日精や日典の代に紛失あるいは消失し、以後は要法寺や比叡山の相伝に成り代っている、との三一世・日因の証言もある(要1-377~378)。そもそも化法に即して形成されるのが化儀であるから、金口相承の三大秘法義が理論的に公開されている現在では、法主一人に化儀制定者を特定すべき理由などどこにもない。