「『法主信仰』の打破――日寛上人の言論闘争」(該当日付け発刊『大白蓮華』9月号所収の論考)

青年僧侶改革同盟  松岡幹夫氏 筆

「法主信仰」の打破――日寛上人の言論闘争

「法主信仰」の打破――日寛上人の言論闘争

著者  松岡幹夫

掲載誌 『大白蓮華』

発行日 平成十七年九月一日

 日蓮大聖人は仰せである。「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(一二四四ページ)「信心」なき日顕宗の坊主らは、この大聖人の教えに背いて、あたかも“御本尊は法主の二字におさま”と言わんばかりに、「本尊の体(法体)は法主が独占している、と信者に説く。そのうえ、法主の日顕にひれ伏し、法主の開眼を受けなければ、御本尊もニセモノになる、などと民衆を脅している。

 こうした邪説に対し、私は、昨年末に発表した小論(「東洋哲学研究所紀要」第20号所収「現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義――三大秘法義の理論的公開過程に関する考察を踏まえて――」)で、次のような意を込めて破折した。――釈尊から上行菩薩に別付嘱された法体は、大聖人が御本尊として顕示されたのであり、歴代法主の内証に秘密裏に伝えられていくのではない。大聖人根本、御本尊根本に正しき信心に励む門下は、誰でも法体を証得できる。また、代々の法主が唯授一人の血脈相承によつて伝えるべき奥義とは、三大秘法の御本尊の教えに極まるのであるが、その三大秘法の御本尊の教えは、日寛上人が「六巻抄」の中ですべて説き明かされた。そして、「六巻抄」が出版公開されている現代では、皆が文底仏法の奥義を学びつつ御書を拝し、正しき信心を実践できる。もはや、法主は、門下僧俗を教導する根本の立場にいない。さらに、御形木御本尊が主流の時代において現法主が御本尊を書写する必然性も失われた。かくして、現代における法主の意義は実質的に消滅している――。

 この論文は、日顕が住む大石寺をはじめ、全国の日顕宗寺院に送付された。

◆ 日顕宗は日顕を妄信して日寛上人を否定 ◆

 論文の発表から半年近くも経って、「日蓮正宗宗務院監修」と書かれた、筆者不明の小冊子が私の手元に届けられた。この文書、分量は一人前でも、内容はあきれ返るばかり。何の根拠も示さずに「御法主上人の御内証にのみ、“久遠元初の完全なる悟り(境智冥合)”が相伝される」「御法主上人への信伏随従こそ即身成仏の要」といった法主信仰を、ただ繰り返しているだけである。

 しかも、よほど目障りなのだろう。日蓮正宗の正統中の正統教義とされる26世・日寛上人の教学を見下し、誹誘している。

日顕一派は、法主のみが知る秘密の法門から見れば、日寛教学など「部分」「外用」にすぎない、とする「日寛教学外用論」を唱えている。「外用」とは、本意である「内証」を隠して外面に現した姿や作用をいう。つまり、日顕らは、「本意を隠した、仮の教えである」「真実の大聖人の教えではない」として、日寛上人の教学を真っ向から否定したわけである。日寛教学を否定することは、そのまま日蓮正宗の教学を根本から否定することに通ずる。宗門人として、到底できることではないはずだ。

日顕個人を妄信する日顕宗の正体を、彼らは愚かにも教学面から、さらけ出したのである。

◆ 法主信仰は稚児貫首の時代に作られた逸脱義 ◆

 考えてみれば、日寛上人は、それ以前の宗門に時折見られた「法主信仰」的な動きを、教学の面から完全に封じた法主である。日寛上人以前の宗門では、法主の権威がとりわけ強調された時期が2度ほどあった。

 ー度目は、12世の日鎮法主の代である。日鎮法主は、数え年の14歳で9世の日有上人から血脈相承を受けたとされる「稚児貫首」の一人である。この頃、京都・住本寺系の高僧で大石寺へ帰伏し、日有上人の門下となった左京阿闍梨・日教が、若年の日鎮法主の補佐役として活躍した。未熟な青年法主を支えるためか、日教はいくつかの著作の中で、ことのほか法主の権威を力説している。例えば、「類聚翰集私」では「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」「当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」「持経者は又当代の法主に値ひ奉る時・本仏に値ふなり」などと述べている。

 他門の僧侶歴が長く、老境に至って日有上人に帰伏した日教は、宗開両祖の正法正義を唯一継承する門流が大石寺であることを強く意識し、この点からも、宗門法主への尊信を熱心に唱えたのだろう。その心情は理解できるが、だからといって、「本尊の体」を、御本尊よりも大石寺法主の内証に求めるならば、明らかに逸脱義である。日教は、「穆作抄」に「閣浮第一の御本尊も真実は用なり」と述べている。ここでいう「御本尊」が、大聖人の顕された御本尊を指すとすれば、日教の本尊観は”法主が体で、御本尊は用。ということになる。これは本末転倒の「法主信仰」である。いずれにせよ、日教の法主論は、後世の宗門に甚大な禍根を残した。なぜならば、時代が下るに従って、日教に似た言い回しで、「法主信仰」を唱える事例が目立ってくるからである。

◆ 要法寺出身者が法主に対する崇拝を強要した ◆

 その最初の例は、日寛上人が生まれる約20年前に起きた。すなわち、日寛上人以前において、2度目に法主の権威が強調された時期である。48世・日量法主の「続家中抄」によると、この頃、17世の日精と当時の大檀那である敬台院との関係が悪化し、日精は富士大石寺を出て江戸の常在寺に移住してしまった。そのため大石寺は法主不在、住職不在の非常事態となり、廃寺の危機に直面したので、敬台院が法詔寺の日感に相談して日舜を後継者に決め、日舜は、寛永18年(1641年)に大石寺に入った。

日舜はその後、御本尊を書写するなど、相承もないのに法主の務めを行った。日舜が19世の法主となったのは正保2年(1645年)であり、敬台院と和解した日精から、ようやく正式な血脈相承を受けたのである。このように、法主就任の経過が複雑であるうえ、数え年で36才と若僧の日舜法主のことを、後見人である法詔寺の日感は心配した。

  そこで日感は、大石寺の有力檀家に日舜への無条件の服従を説き勧める。”若年の日舜を軽々しく思ってはならない。どんな僧であっても相承を受けた人は生身の釈迦日蓮である。これが、開山・日興上人の御本意であり、大石寺一門の信徒の肝要なのである”などと述べた手紙を、日感は4人の有力檀家に宛てて送っている。これは、いかなる法主でも無条件に崇拝せよ、と檀家に強要するもので、まさしく「法主信仰」と呼ぶしかない。そもそも日感は、大石寺ではなく要法寺出身の僧である。その日感が、「法主信仰」を日興上人以来の大石寺の〈伝統〉に仕立て上げてしまったのである。

  今回の宗門問題で、日顕らは、あたかも万古不易の掟のごとく「法主信仰」を鼓吹している。

彼らの言い分は、室町から江戸の時代にかけて、宗門内で逸脱的に程造された〈伝統〉を笠に着た論法なのである。

◆ 日寛上人は六巻抄から法主信仰を除外された ◆

 ともかく「法主信仰」は、日寛上人が活躍される頃には、宗門の一部に隠然と根を張っていた。「当家法則文抜書」と呼ばれる、日寛上人の文書がある。現代的に言うと、備忘録の類であろう。日寛上人はそこで、日教の「類聚翰集私」から、多くの箇所を抜き書きされている。中には、「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」などの「法主即本尊」「法主即日蓮」の義を説いた文も含まれている。近年、日顕らは、日寛上人にも「法主信仰」があった、と言い、この「当家法則文抜書」をよく持ち出してくる。

 しかし、「当家法則文抜書」は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない。もし日顕宗が、日寛上人の「法主信仰」を証明したいのならば、日寛上人の”出世の本懐”とも言える

「六巻抄」の内容を問題にすべきであろう。日寛上人が後世の門人に伝え残そうとされたのは、ひとえに「六巻抄」であった。そのことは、「三重秘伝抄」の「此れは是れ偏に法をして久住せしめんが為なり」、あるいは「依義判文抄」の「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」との文言などから明らかである。

 なのに、日顕らは、決して「六巻抄」の文を引用し、「法主信仰」を論じようとはしない。否、できないのである。

 「六巻抄」のどこに、歴代法主の内証を「本尊の体」とするような教義があろうか。例えば、「文底秘沈抄」では、霊鷲山で教主釈尊から上行日蓮へと相伝された「一大事の秘法」について、「三大秘法随一の本門の本尊の御事なり」と示されるのみである。これに従えば、「一大事の秘法」=「本尊の体」とは御本尊の御事である。法主の内証がそれに当たる、とは説かれていない。要するに、日寛上人は、宗門の〈伝統〉に「法主即本尊」「法主即日蓮」の義があることを承知のうえで、最も大事な「六巻抄」の内容からそれを除外されたのである。

 じつは、日寛上人は、「類聚翰集私」が誰の作なのか分からず、宗門の教義規則=「当家御法則」の集成として認識され、抜き書きをされた。「類聚翰集私」を日教の作と断定したのは、近代の堀日亨上人であり、江戸時代の宗門人は知る由もなかった。日寛上人も、宗門古来の伝承として一応、それを受け止められたのであろう。しかし、日寛上人は、「法主即本尊」「法主即日蓮」という義を、「六巻抄」や文段類の中に、まったく取り入れられなかった。ここに、たとえ歴代先師の指南であっても、「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢がうかがい知れよう。

◆ 日寛上人こそが大聖人と日興上人の正統な系譜 ◆

 さらに日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかた。最晩年に完成された再治本の「六巻抄」に、そのような主張は、どこにもみられない。むしろ「当家三衣抄」の最後の所で、日寛上人は、宗門の三宝を論ずるとともに、「行者謹んで次第を超越する勿れ」との誠めの言葉を残されている。これは、「法主即日蓮」の義などに基づく「法主信仰」を、上人が否定されていた証左である。

 日蓮大聖人は「強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(一三三八ページ)と断じられ、信心根本の血脈観を明示された。日興上人は「時の貫首為りと難も仏法に相違して已義を構えば之を用う可からざる事」(一六一八ページ)と遺誠され、法主の権威を相対化された。日有上人は「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり」と述べ、「信心の血脈」という血脈の本義を語り残された。

 日寛上人の「六巻抄」は、これら宗門先師の正しき血脈観、法主観を確固たるものとする、正しい教学上の土台を提供したのである。

◆ 尊信の対象となる僧宝は日興上人御一人である ◆

 また、日顕宗では、日寛上人の「三宝抄」の文を利用して「三宝一体」を強調し、「法主信仰」を正当化しようとする。たしかに「三宝抄」では、仏宝・法宝・僧宝の三宝が「内体」においては「体一」であり、「外相」においては「勝劣」がある、と述べられている。しかしながら、ここでの「三宝一体」「三宝勝劣」は、寺院において礼拝の対象として安置される三宝についての議論である。ゆえに、同抄の問題の箇所では、「法宝を以もつて中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられている。

当然、信仰対象となる「僧宝」とは、宗門寺院の奉安形式から言っても、日興上人御一人である。

  ところが、日顕宗は、「文底秘沈抄」の「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し。清浄の法水断絶せしむることなし」との文を引き、歴代法主も「一器の水を一器に移す」のだから三宝一体の僧宝に含まれる、と強弁している。

  私は、日顕に言いたい。「歴代法主が『三宝抄』に説く三宝一体の僧宝に含まれる、と本気で思うのなら、大石寺の宝前に、67人の法主の『御影』をずらりと並べて拝みなさい」と。

 同じく法水写瓶の表現が使われていても、「三宝抄」では信仰対象として安置すべき僧宝が、「文底秘沈抄」では法義継承面での大石寺の正統性が、それぞれ論じられている。二つの議論は、次元の異なる話なのである。

◆ 法体の血脈相承は万人に開かれている ◆

 いわんや、大石寺の歴代からは、大聖人、日興上人の正しい教義から逸脱し、釈迦仏像の造立を唱えたり、神札受容を黙認して焼死したり、といった誘法の法主が度々出た。宗門史を詳細に検討するかぎり、宗門の法主は”僧宝の一分になりうる”という不確定な存在にすぎないのである。

 日寛上人は、「三宝抄」の中で「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」と述べられている。御自身を「僧宝の一分」とされたことは、教義の根幹にかかわる以上、単なる謙遜の表現ではない。日寛上人は、あくまで法主を修行者と考えられた。それは、上人が「観心本尊抄文段」の中で、法主の本尊書写を、「受持」という信心修行の位における書写行、とされたことからも明らかである。

 また、大聖人の究極の教えが日寛教学を通じて公開されている現代では、すべての信仰者が”僧宝の一分になりうる”存在である。今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる。いわんや、明治以降の法主が、在家者と同じく肉食妻帯の者であることを思えば、なおさらである。

 日顕だけが「本尊の体」を所持するだの、日顕の内証は「究寛果分の無作三身」だの、あげく無信無行にして遊蕩坊主の日顕が「生身の釈迦日蓮」だの、と好き放題に言い放つ日顕宗は、どこまで狂っているのか。

 大聖人は「生死一大事血脈抄」の中で「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(一三三八ページ)と、最蓮房に仰せられている。ここでは、最蓮房という一門下に”釈尊から上行菩薩へと結要付嘱された南無妙法蓮華経を、あなたも唱えて血脈相承しなさい”と勧められている。結要付嘱の法体が法主だけに血脈相承される、などという後世の説は、この大聖人の御教示に反している。法体の相承も信心唱題によって万人に開かれる――これが、真の大聖人の仏法である。日寛上人も、「当体義抄文段」の中で、信心唱題に励む人は「我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」と示されている。

 そもそも、大聖人は、一切衆生の信心の対境とすべく、法体を御本尊として建立され、目に見えるように公開された。このうえ、歴代法主が同じ法体を秘伝する必要など、どこにあろうか。

 法主は自らが書写し、あるいは形木にした御本尊に「法魂」を宿らせるのだ、と目顕宗は言う。だが、法魂を宿したはずの返納御本尊を大石寺内で大量焼却している、という矛盾は決定的である。その法魂は焼却してよいのか。結局、法主が伝えるべきは、法魂のごとき正体不明の法体ではなく、法体の教義なのである。

◆ ニセ法主は法主信仰を唱える資格すらなし ◆

 「法主信仰」を日寛上人の教学がいかに否定しているか、について色々と述べてきた。 「法主即本尊」「法主即日蓮」の義の強調は、要法寺門流出身の左京日教の影響から室町時代の宗門に起こり、江戸時代の中期には出所不明の伝統教義と化していた。当時の宗内には、権威主義的な「法主信仰」も芽生えつつあった。

 しかし、日寛上人が出現されたことで、宗開両祖の正統教学は厳然と復興されて、御本尊根本、信心根本の正しき信仰が後世に伝えられた。そして今日、日寛上人の正統教学を受け継ぐ創価学会の出現によって、日蓮大聖人の仏法は正しく世界に弘められ、人類の闇を照らす希望の光となっているのである。

 最後に言うが、現宗門には「法主信仰」や「三宝論」を唱える資格すら全くない。なぜならば、日顕は「ニセ法主」だからである。

 自已申告で法主の座を盗み取った日顕は、この26年間、何年何月何日の何時頃に相承を受けたのか、いまだに明らかにできない。また、「法主の証明」である「相承箱」の所持も証明できない。そのため、日顕の相承疑惑が焦点となった数々の裁判に、日顕本人が出廷できず、宗門は、最高裁で連戦連敗という大醜態をさらしている。私たちは、このような「ニセ法主宗」から、法主の尊厳や権威を説かれる筋合いなど一切ない。

 日顕一派は、法主が生きた僧宝である、という。ならば、「ニセ法主」しかいない日顕宗は、僧宝の一部が欠けた「ニセ仏教」となるのではないか。

 「法主や三宝の尊厳を論じたいのならば、それ以前に、日顕が、いつどこで相承を受けたのか、客観的に証明してみせよ!」と、日顕を厳しく弾呵する次第である。