日蓮正宗阿部日顕管長への質問事項
青年僧侶改革同盟 松岡幹夫氏 筆
日蓮正宗阿部日顕管長への質問事項
[ 宗内教師各位への書簡 ]
拝啓
新涼の候、時下ますますご清祥の段、お喜び申し上げます。
さて先般、私は阿部日顕氏に対し、研究調査のための質問状を作成し、送付しました。過日の教師講習会において、阿部氏が私の質問書の件について切り出し、質問に対する回答書を私個人だけでなく、宗内に広く配布する旨を話したのは皆様もご存知のことと思います。私は、阿部氏側からの回答書が本人によるものでなく、しかも私への罵詈讒謗に終始している点に大変失望しました。そのうえに、私の許可もなく、私の個人的な調査依頼への回答を小冊子にし、宗内や他の離脱寺院に配布するとは非礼も甚だしいと言わねばなりません。周知のごとく、私と阿部氏とは信仰上、敵対関係にあります。が、今回は研究上の問題なので、学問的良心のうえから敬語を用い、十分に礼を尽くしたつもりです。それをも足蹴にするような阿部氏の態度は、常軌を逸しており、知人の宗教研究者に話しても呆れ返っておりました。
そこで、私としては、阿部氏の側からの一方的な中傷行為に対し、私自身の名誉を守るためにも、今回の阿部氏宛ての質問書をやむをえず公開し、全国教師の各位に送付するものであります。
ドイツの哲学者・カントも言うごとく、自らの良心が下す道徳的命令に忠実であることこそ、人間が人格を有する証であります。私が阿部氏に出した質問の数々は嘘偽りのない良心の発露であり、真理を愛するがゆえの探究の産物です。それに対し、阿部氏の配下が書いた反駁書は、およそ弁解のための弁解であり、読者の思考を混乱させることだけを目的とした詭弁と言わざるをえません。恐らく、反駁書を読まれた皆様も、彼らがいったい何を言いたいのか、よくわからないことと思います。
とくに、かつて阿部氏が軽はずみに口走ってしまった「十二箇条の法門」の解釈について、先師の説を否定してまで弁明に血眼となっている様は見苦しいの一言に尽きます。また、法主が丑寅勤行の際に形木本尊のすべてを宝前に供え、開眼供養を行っていないことは、皆様承知のとおりであります。何十万体もの形木本尊を供えることなど、もとより物理的に不可能です。にもかかわらず、阿部氏側の回答書は、この動かぬ事実を素直に認めようとはせず、”法主が丑寅勤行で祈念するだけで、時間・空間を越えて、印刷されたすべての本尊に一斉に入魂がなされる”などと強弁する始末です。宗門七百余年に前代未聞の怪説であり、また丑寅勤行の法主の祈念のみで事が済むなら、開眼の儀式は一切、必要ないはずでしょう。さらに、大半が退転者からのものである返納本尊を”お役目を終えた”と勝手に断定してその焼却を正当化し、これまた、丑寅勤行で法主が祈念することにより返納本尊の法魂は日蓮大聖人のもとに帰るのだ、などという文証なき珍説を唱えるに至っています。
ともあれ、阿部氏の配下が作成した論旨不明瞭、文法無視の冗長な悪文と、私の単刀直入で簡素な質問書とを、よく読み比べてみて下さい。どちらが道理に適っているか、どちらが誠実な文章なのかは明らかであると信じます。
以上、私が阿部日顕氏に宛てた質問状を皆様に送付するに至った経緯と心情とを説明した次第であります。
敬具
平成十七年九月六日
松岡 幹夫
宗内教師各位 殿
2005年7月30日
日蓮正宗管長 阿部日顕 様
研究調査に対する協力のお願い
盛夏の候 皆様にはお元気でお過ごしのことと拝察いたします。私は、富士大石寺門流の宗学並びに宗史を研究している者です。皆様の間では、私は宗門の離脱僧として認識されているようですが、この度は一研究者としての立場から、研究調査にご協力頂きたく、お願い申し上げる次第です。
ご存知のこととは思いますが、私の研究テーマは「現代の大石寺門流の信仰における唯授一人相承の意義」であり、すでに同論文を『東洋哲学研究所紀要』第20号に発表いたしました。それに対して、先月の半ば、貴宗門の宗務院から私宛てに反論文書らしき小冊子が送られてきました。しかし、それは学術的内容ではなかったので、当方としては、いささか残念に感じております。
つきましては、学問研究の発展に資するため、現管長のあなたに、是非ともお伺いしたいことがございます。質問は全部で10項目あり、別紙の通りですので、ご多忙中とは存じますが、是非ともご協力を頂けないでしょうか。返信用封筒を同封いたしましたので、そこに回答書を入れ、ご返送のほどを宜しくお願い申し上げます。ご回答の内容は、今後の研究に反映させ、その成果を必ず報告させて頂きます。また、残念ながらご回答、あるいはご回答頂ける旨のご返事が得られなかった場合、失礼とは存じますが、回答不能の意思表示として研究の参考にさせて頂きます。何卒ご了承下さい。
また、勝手なお願いで甚だ恐縮ですが、できれば8月末日までにご回答を頂きたく、重ねてお願い申し上げます。
敬具
日本宗教学会会員・日本印度学仏教学会会員
学術博士 松岡幹夫
質 問 項 目
*人物の敬称略。ただし、本人または本人の関係者が存命中の場合にかぎって、敬称を付しています。
1 循環論法の誤謬について
現日蓮正宗の主張は、学問的にみると循環論法に陥っているのではないでしょうか。循環論法とは、論点が先取りされ、「前提の真理と結論の真理とが相互に依存し合うような堂々めぐりの虚偽の論証」(『広辞苑』第五版)のことです。例えば、あなた方は常に、歴代法主の専権的な立場を歴代法主の文言によって正当化しようとします。単純な循環論法であり、検証も反証も不可能な、自己完結している議論と言わねばなりません。こうした論法は、宗教に非論理性がつきものだとしても余りに閉鎖的であり、合理性を尊ぶ近代社会の人々からは、カルト集団のマインドコントロールと同様に見られてしまいます。何よりも、経論による「文証」を不可欠のものとし、重視した宗祖・日蓮の、開かれた精神に背くのではないでしょうか。この点に関する、あなた自身のご意見をお伺いいたします。予め断っておきますが、あなた方は、たしかに法主の権能を宗祖のいくつかの言説によっても根拠づけようとしています。しかし日蓮文献に関する研究上の定説では、それらはすべて後人の偽作か加筆であり、循環論法を脱しているという有力な根拠になりえません。したがって、別の角度からのご回答を期待します。
2 内証の次元における因分と果分の立て分けについて
日寛は、『取要抄文段』の中で「蓮祖の門弟はこれ無作三身なると雖も、なおこれ因分にして究竟果分の無作三身に非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」と述べています。ここで日蓮のみが「究竟果分の無作三身」であるというのは、もちろん内証次元での話であり、日蓮の門弟が「因分にして究竟果分の無作三身に非ず」というのも内証が因分にとどまる意であります。ゆえに日寛は、「蓮祖の門弟」である以上、法主の内証も「因分の無作三身」を超えることはない、とみなしたと思われます。実際、日寛は法主の本尊書写を「受持」の修行中の書写行に分類しています。にもかかわらず、あなた方が「大聖人が究竟果分の無作三身であらせられるならば、それを受けて御本尊を御書写し給う御法主上人の御内証も究竟果分の無作三身にましますのである」(日蓮正宗宗務院監修、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の二〇〇五年六月七日発行の文書、以下「宗務院文書」と略示)と言われるのは、かかる日寛の規定を変更したことに他なりません。そこで質問ですが、果分の仏を日蓮一人の内証に限定した日寛の教説を変更し、歴代法主の内証をも果分の仏であるとした、あなた方の主張の根拠は何ですか。先に述べたような循環論法は用いず、できるだけ論理的にご回答願います。
3 『三宝抄』の三宝一体義について
あなた方は、日寛の『三宝抄』の文を引用して「三宝一体」を強調し、それによって歴代法主を神聖化しています。『三宝抄』では、仏宝・法宝・僧宝の三宝が「内体」において「体一」、「外相」において「勝劣」、と「分別」された後、「法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられています。ここに明らかなごとく、『三宝抄』の三宝一体義は、信仰対象となる三宝についての議論です。すなわち、日寛が『当流行事抄』で規定した「久遠元初の三宝」についての議論なのです。宝前に安置し信仰対象となる僧宝は、大石寺門流では、古来より開山の日興に限定されています。
ところが先の宗務院文書は、日寛の『文底秘沈抄』から「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」との文を引用し、歴代法主も「一器の水を一器に移す」のだから三宝一体の僧宝に含まれる、と私に反論しています。では、お聞きしますが、あなた方は歴代法主をも信仰対象としての僧宝とみなすのですか。そうではなく、『三宝抄』や『文底秘沈抄』の一部の文を根拠に法主への尊信を説くのだ、と言いたいのならば、ここには三つの重大な誤りがあります。
第一に、あなた方は、三宝の一体性と差別性を「分別」したうえで三宝を安置する形式を論ずる、という『三宝抄』本来の文脈から外れ、法主の内証の尊厳を示すために同抄の三宝一体義を用いています。三宝安置論とは別の次元で『三宝抄』の三宝一体義を引用することは明らかに恣意的であり、いわゆる「切り文」の謗りを免れません。ちなみに、『三宝抄』の中で日寛は、「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」と述べています。「僧宝の一分」という日寛の自己認識は、それが謙遜であろうとなかろうと、“法主の位に就くだけで僧宝になれるわけではない”という彼の実力本位の僧宝観を示すものと言わねばなりません。このこと一つをとっても、あなた方の『三宝抄』の解釈が日寛の意図から逸脱していることは自明です。
第二に、かりに牽強付会の解釈によって法主を「三宝一体」の中に含めたとしても、あなた方の主張は日寛教学の規定から外れています。2で論じたように、日寛は、究竟果分の仏は日蓮一人に限られる、と述べています。そこからすると、「三宝一体」の内証の次元でも、仏宝たる日蓮大聖人と僧宝たる日興上人との間には、なお「一体の中の区別」があるとみるべきでしょう。
あなた方のごとく、「御法主上人の御内証にのみ、“久遠元初の完全なる悟り(境地冥合)”が相伝される」(前出の宗務院文書)と説くなどは、日寛の教えの否定と言わざるを得ません。あなた方の三宝一体義は、むしろ三十一世・日因の法主信仰を受け継ぐものです。日因は、金沢の信徒に対し「日興上人已下の代々も亦た爾なり。内証に順ずるに則仏宝也。外用に依れば則僧宝也。故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば、則外用を存し以て僧宝と為るのみ」と述べ、日興已下の歴代法主の内証をも三宝一体としています。客観的にみると、創価学会が日寛教学を厳格に受け継ごうとするのに対し、あなた方は日因の法主信仰に帰ろうとしている、と言えます。したがって、あなた方が三宝一体義によって法主への尊信を説き勧めたいのならば、日寛の諸文書を「正依」とする現在の宗規は変更し、正式に日因系統の宗派となる旨を公的に表明すべきでしょう。
さて第三に、宗務院文書が掲げた『文底秘沈抄』の文は、日寛が身延山最勝説を批判する中で出てくるものです。対外的論議において、大石寺の法主である日寛が、自門の血脈相承の歴史の恥部に触れるわけがありません。しかし、日寛の本音は違ったのではないでしょうか。彼が残した『当家法則文抜書』には、一七世の日精が著した『日蓮聖人年譜』(以下『年譜』と略示)からの抜書がみられます。それは、三大秘法や正行・助行にかんする箇所の抜書ですが、日寛教学からみれば、大変な邪義が述べられています。そこで日寛は、この『年譜』の論述について「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」「他解なり。正義に非ざるなり」と付記しています。つまり、『年譜』にみられる邪義は、要法寺日辰の「他解」であって日精の「本意」ではない、と解釈したのです。しかし、『年譜』の邪義が日精の本意でないのなら、なぜ日精自身が「これは日辰の邪義である」と明示しないのでしょうか。どう考えても、おかしな話です。結局、日寛は日精本人が邪義を説いていることを承知のうえで強引に日精をかばった、とみるしかありません。日寛は十代の頃、江戸の地で、日精の説法を聞いて出家を決意しました。それだけに、日精には大恩を感じ、自らも大石寺の血脈相承を受けたことから、たとえ抜書文書の類であっても、あからさまな日精批判ができなかったのでしょう。
日寛は、歴代先師の言に対しては、慎重に直接的批判を避けていました。一例を挙げます。九世・日有は、大石寺門流の「文底の大事」とは『法華経』寿量品の「如来秘密神通之力」の文の底を指す、と考えていたようです。ところが、この日有の説を「日有上人雑々聞書」として抜書した日寛は、寿量品の「我本行菩薩道」の文の底にこそ当家の「文底」の義があると考えていました。これでは、「文底の大事」という重要な問題について、歴代先師である日有の説に反対することになります。そこで日寛は、日有の文底義の抜書の後で「大貳云く云云」と記し、あえて自説の披露を遠慮する姿勢をとったのです。これについて、堀日亨氏は「有師の説と本師(日寛)の主論と徑庭(けいてい)甚だしきが故に冗説せざるか」と註釈しています。とはいえ、日寛は『開目抄愚記』の中で、「当流一大事の秘要」として「我本行菩薩道の文底に久遠名字の妙法を秘沈し給う」と本意を明かしています。日寛の「大貳云く云云」の真意は、やはり日有の文底義の批判だったわけです。このように、『当家法則文抜書』における日寛の付記に関しては、相承の先師に対する日寛の遠慮、というものを念頭において理解しなければなりません。そうするならば、日寛は、同抜書において婉曲的な言い回しながら日精の邪義を手厳しく弾劾している、という真相がはっきり見えてくるのです。
第三の論点を整理しておきましょう。日寛は『文底秘沈抄』の中で「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」と述べる一方で、『当家法則文抜書』には「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の意なり。故に本意に非ざるなり」「他解なり。正義に非ざるなり」との日精批判の付記を残しました。私は、日寛が本心では“完全無欠な大石寺の法水写瓶”という見方に懐疑的だったのではないか、と思います。『文底秘沈抄』の文が外部向けの言説であるのに対し『当家法則文抜書』の方は個人的な記録文書であること、日寛に歴代先師に対する遠慮があり、とりわけ日精に対しては恩義も感じていたことなどを総合して考えれば、日寛は『当家法則文抜書』で婉曲的に日精を批判した、と結論せざるをえないのです。
以上、私の主張を申し述べました。これに関する、あなた自身の見解をお示し下さい。
4 法主による本尊の開眼と許可について
あなたは、平成九年八月二十八日、大石寺で開催された「全国教師講習会」において「以前から今日に至るまで、あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」と明言されました。しかしその直後、あなたは「以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について『開眼がない』と(某氏が)推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時においてお取り次ぎをしていた」とも述べました。非常に曖昧模糊とした語り口なので、今一度、確認します。あなたが「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」というところの「あらゆる御本尊」の中に、形木本尊は含まれていませんね。なぜならば、その後で東京・池袋の法道院が各末寺へ送付していた形木本尊については「法主の許可」で充分だったと語っているからです。察するに、あなたの考えは「あらゆる法主直筆の常住本尊は開眼されているが、印刷の形木本尊については法主の許可さえあれば開眼の必要がない」ということと思われます。そうだとすれば、なぜ形木本尊には開眼の必要がないのですか。法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか。草木成仏の意義の上から、教義的な説明を願います。また、いわゆる「特別御形木御本尊」については開眼の必要があったのかなかったのか、そしてなぜ常住本尊には開眼、形木本尊には許可といった区別を設けているのか、についてもお答え下さい。
5 開眼本尊の焼却について
さらにここで、具体的な事実関係について質問します。すでに述べたように、あなた方は「御本尊は御開眼により大聖人の御法魂が宿り給う」と言われています。しかし、大石寺では以前、まるで人目を憚(はばか)るかのごとく、大坊西寮の近くの倉庫の中に密かに焼却炉を設置し、そこで所化小僧らに返納本尊の焼却をさせていました。私自身も大石寺に在勤していた折、この場所で本尊焼却に立ち会ったことがあります。もちろん、自分自身の体験のみをもって既成事実とみなすことは、研究者としての立場上いたしません。したがって改めてお聞きしますが、今現在、全国の寺院から送られてくる返納本尊を焼却していますか。「はい・いいえ」のいずれかでお答え下さい。また、もし本尊を焼却されているのなら、「大聖人の御法魂が宿り給う」本尊を大量に焼き払っていることになりますが、その点はどうお考えですか。仮に「法主が許可しているからよい」と言うのであれば、まず具体的にどのような手順で許可がなされるのか、ご説明下さい。そして次に、なぜ「開眼」の時と同じく法主が、いわば「閉眼」の儀式を行わないのか、文献的、論理的な根拠をお示し下さい。
6 大石寺の唯授一人相承の永遠性について
前出の宗務院文書は「そもそも仏法は付嘱の次第により正しく流通されてきたのである。付法蔵二十四人の仏法付嘱、釈尊より滅後末法の弘通を託された地涌の上首上行への結要付嘱、大聖人から日興上人への御付嘱、さらには日目上人以来御歴代上人への相承は、みな唯授一人の付嘱である」と述べ、「唯授一人」という仏法付嘱のあり方が不変であると説いています。しかし、釈尊以来の「付法蔵」は「二十四人」で断絶し、中国における天台智顗から章安への付法も、中興の妙楽を経ていつしか形骸化していきました。また、日本天台では伝教から義真への仏法相承が慈覚の代になって早くも異流義化した、というのが日蓮の見方です。天台も、伝教も、日蓮も、むしろ歴史的現実としての血脈相承を受けずに仏法を立てて弘通しています。この事実からみれば、“大石寺門流においてのみ唯授一人の仏法付嘱が断絶しない”と主張するには、相応の根拠が必要です。むしろ、“大石寺の血脈相承も何時か必ず断絶もしくは形骸化し、しかる後に自解仏乗の悟り、己心の内相承によって仏法を復興する人物が出現する”とみた方が、仏教史的にも、日蓮の相承認識の上からも、無理のない見解ではないでしょうか。
まず、仏教史上、唯授一人の仏法付嘱がしばしば断絶したのはどうしてなのか、あなたの意見を述べて下さい。次に、あなた方が「日蓮の仏法の付嘱だけは永遠に大石寺の歴代法主によって行われる」と断定しているのは、単なる宗派的信念の表明なのか、それとも何か合理的な理由があるのか、をお答え下さい。ただし、宗門の内輪だけで通用する「文証」ではなく、文献学的に承認された日蓮文書を基に、しかも、大半の現代人が納得する議論を提出して下さい。要言すれば、少なくとも現代人の理性的判断が許容しうる「文証」と「道理」を出してほしい、ということです。例えば、「代々の聖人悉く日蓮なり」(『御本尊七箇相承』)の文によって〈法主の内証=本仏〉の義を立てるような「道理」では、土台となる「文証」の真偽が不確かであるうえに、代々の聖人(法主)が「いかにして」日蓮となるのか、という教義的説明もなされていません。現代人の目には、独善的で怪しげな神秘主義としか映らないでしょう。
なお、あなた方がよく引用する、『百六箇抄』の「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」との文については、堀日亨氏が後人の加筆と判断しています。また、堀氏が当文を日蓮真筆と同様に扱ったことを強調しても、法主によって法主を正当化する、という例の循環論法にすぎず、対外的な説得力はありません。同様に、歴代法主の諸文献によって大石寺の唯授一人相承の永遠性を根拠づけることも、循環論法の誤謬に陥ることを指摘しておきます。
ついでながら、本件にかかわる、あなた自身の相承問題について一つだけお聞きします。巷間、阿部日顕氏が血脈相承を受けておらず、大石寺門流の相承は六十六代で断絶した、と主張する人々がいます。それに対し、あなた方が真剣に反論していることも承知しています。私が関心を持つのは、本当に相承の儀式が行われたかどうか、という問題とともに、通常、大石寺の血脈相承に先立って行われるはずの「師弟の契約」について、あなたが一言も述べていないことです。あなたは、前住の細井日達氏と何時、どこで「師弟の契約」を結んだのですか。そして師弟の契約を結んだのであれば、あなたは、どうして師匠たる細井氏が精魂込めて作った大客殿、正本堂、庭園などを軒並み壊していったのですか。あなたは、寄進者である創価学会の謗法を理由にしていますが、建立者はあくまで細井氏です。細井氏が丹精を込めた大奥の庭園に至っては、学会とは何の関係もありません。なのに、あなたは法主就任後、その庭園を即座に壊し、自分好みに作り変えています。これらは、「師弟の契約」を結んだ者の行為としては理解困難なので、お聞きするのです。また、あなたがなぜ細井氏の弟子の集まりである妙観会に自ら参加し、同会を積極的に支援しないのか、この点も甚だ疑問です。日達氏の弟子の立場から、理由を聞かせて下さい。
7 金口相承の内容の未公開について
金口相承の内容や文献が永遠に未公開であることの証左として、あなた方は十七世・日精の「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し、唯貫首一人の外は知る能わざるなり」(『当家甚深之相承之事』)や五十六世・日応の「たとい広布の時といえども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず」(『弁惑観心抄』)を引用します。これは、昨年末に出した私の論文の中で“日寛によって金口相承の法門は理論的に整束され、開示された”いう主張を出したことに対する反論ですが、どうも議論のすれ違いがあるようです。私が言いたかったのは、「たとえ大石寺門流の金口相承である法門や文献の内容が非公開のままだとしても、日寛の『文底秘沈抄』はすでにその教義上の核心を開示し終えている」ということであり、それゆえに「理論的開示」という表現を用いたのです。唯授一人、金口相承の法門に関する私の理論的開示説は、あなた方のいう相承文献の永久非公開説と矛盾しません。
そのことを踏まえたうえで、私はあなた方の永久非公開説に対し、強い疑念を抱いています。なぜならば、あなた方は、かつての法主が「非公開の唯授一人相承である」と規定した諸文献を「それは唯授一人ではない」と否定しているからです。例えば、『御本尊七箇相承』がそうです。十七世・日精は、この文献の相承によって本尊書写の資格が与えられると考えました。彼が著した『家中抄』の「日興」の伝には「亦本尊の大事口伝あり是れを本尊七箇口決と申すなり、是の故に師に代りて本尊を書写し給ふ事亦多し」と、そして「日目伝」にも「亦本尊七箇決を相伝し給ふ、之れに依て元徳正慶の間師に代って本尊書写し給ふ」とあります。この『家中抄』の記述の真偽はともかくとして、日精が「本尊七箇口決」を本尊書写にかかわる極めて重要な法門とみたことは確かです。また、二十六世の日寛は、『御本尊七箇相承』を唯授一人相承の非公開文献とみなしました。『取要抄文段』に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」と、また日寛の講義を三十世・日忠が筆録した『観心本尊抄聞記』には「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」と記録されています。
かくのごとく、日精から日寛にかけての江戸中期の大石寺では、現在の『御本尊七箇相承』『本尊三度相伝』等の内容が非公開とすべき「唯授一人の相承」であり、これらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずるとしたことがうかがえます。ところが、前出の宗務院文書は「『御本尊七箇之相承』には保田日山・嘉伝日悦の写本、『本尊三度相伝』には水口日源の写本が存在する。このように大石寺の御法主上人による写本以外のものがあるということは、これらの書が重要書ではあっても、唯授一人金口嫡々の血脈相承書とは言えないことを明らかに示すものである」などとして、先の日精や日寛の言説を完全に反故にしています。今、あなた方が、唯授一人相承の重要文献に関する過去の法主の文言を否定するのであれば、大石寺の「法燈連綿」「法水写瓶」は看板に偽りあり、と自ら白状したのも同然です。先に述べたごとく、いわゆる「文底秘沈」の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています。将来、大石寺の「唯授一人金口嫡々の血脈相承」の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか。この点、あなたの意見を聞かせて下さい。
8 十二箇条の法門について
日寛は、『観心本尊抄文段』の「序」において「当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり」と述べています。「観心本尊抄」は、日蓮の出世の本懐である本尊の深義を説き明かした書です。それゆえ日寛は、同抄の講義にあたり、まず大石寺の金口相承である三大秘法の本尊に関する秘伝の数々を、「重々の相伝」として列示したものと推察されます。
しかるに、あなたは以前、この「重々の相伝」を「秘伝ながら外用の範囲」にとどまるものとし、「さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承」があると述べました。そして、そう考える文献的根拠として日精の『家中抄』の「日道伝」から「(日目は)御上洛の刻には法を日道に付属す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」という箇所を抜き出しました。あなたの説では、ここにみえる「十二箇条の法門」こそが、今も公開されていない「内用」「別して」の唯授一人相承の極秘伝にあたる、ということでしたね。
このあなたの説について、お聞きしたいことが二、三あります。一つは、「金口嫡々唯授一人の相承」という、あなたにとっては最大事の法門を説明する段で、日精の『家中抄』のごとき誤謬の多い史伝書を使っていることです。大石寺の血脈承継者であり、あなたの先師でもある堀日亨氏は、あなたが引用した「日道伝」の箇所について「本師の弁証は精美ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」と天註を付し、内容の真実性に疑問を呈しています。例えば、あなたは日精の「内用」「外用」という立て分けを採用していますが、堀氏も指摘しているように、「内用」は「内証」の誤記とみてほぼ間違いありません。「内用」という仏教語は、私も寡聞にして知りません。どういう意味ですか。「内証」とどう違うのか、「内証」の意ならば、なぜこの新奇な語を補足説明もせずに使うのか、そもそも先師が“誤り多し”とした書を、なぜ何の断り書きもなく論拠とするのか、すべてご説明下さい。
第二の質問は、あなたが引用した「日道伝」の箇所を素直に読むかぎり、あなたの解釈は論理的に破綻しているのではないか、ということです。「所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり、惣じて之を謂はば内用外用金口の智識なり、別して之を論ぜば十二箇条の法門あり」というくだりは、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が、総じて言えば内証と外用に関連する知識であり、別して論ずるならばこれに「十二箇条の法門」がある、という意味になるはずです。つまり、「十二箇条の法門」とは「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」に関する法門である、と解するのが正しく、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」以外に「十二箇条の法門」がある、とするあなたの解釈はあまりに無理があると言わねばなりません。どうしてそんなに文脈を無視した解釈に走るのか、とくに、文中に二度出てくる「之」という指示語の意味を、きちんと明確化したうえで説明して下さい。
念のため言い添えますが、『家中抄』の「日興」の伝に「両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目、日代、日順、日尊の外漫には相伝し給はざる秘法なり」とあることをもって、形名種脱の相承や判摂名字の相承は多数の弟子に与えられた「法門相承」であり、「内用」(内証)の唯授一人相承にはあたらない、とあなた方が論じられたとしても何ら説得力はありません。というのも、先の『家中抄』の「日道伝」の記述自体は、あくまで形名種脱の相承や判摂名字の相承が「十二箇条の法門」の内容である、としか読めないからです。とすれば、日精は、一方では日興が形名種脱の相承や判摂名字の相承を日目、日代、日順、日尊に相伝したと言い、他方では日目がそれらを日道一人に付嘱したと述べたことになります。したがって、あなたのごとく、先の『家中抄』の「日道伝」の記述を根拠に大石寺の唯授一人相承を正当化することは、日精の主張にも反しています。日精の説を素直に受け入れると、まず「十二箇条の法門」は形名種脱の相承や判摂名字の相承を含み、それは大石寺のみが有する極秘伝などではなく日代、日順、日尊の系統にも相伝されている、という理屈が成り立つからです。むろん、大石寺門流にとっては不都合な理屈でしょう。「十二箇条の法門」に関する日精の記述について、堀氏が「本師の弁証は精美ならざる間付会を加えて益(ますます)誤れり後生悲しむべし」と嘆いたのは、故なきことではありません。
第三の質問は、「十二箇条の法門」そのものについてであります。すでに説明したように、「十二箇条の法門」とは「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」に関する法門である、というのが日精の見解です。そして、本項目の冒頭に引用しましたが、日寛が『観心本尊抄文段』の「序」で示した「重々の相伝」の中にも「形貌種脱」「判摂名字」の名目がみられます。ならば、日精のいう「十二箇条の法門」も日寛のいう「重々の相伝」も、ともに「形貌種脱」「判摂名字」の法門を含むのであり、「十二箇条の法門」と「重々の相伝」とは内容的に重なり合うことがわかるではありませんか。あなたは恐らく、唯授一人の「十二箇条の法門」の存在を昔、堀日亨氏等から聞いて知っていたのでしょう。それで、『家中抄』の中に「十二箇条の法門」という表現があるのを発見し、ここぞとばかりに飛びついた。そうではありませんか。しかし、あなたの試みは、かえって「十二箇条の法門」が日寛によって理論的に開示されている、という事実を広く世に知らしめる結果を招くだけでしょう。
ところで、あなたが昔の教師講習会等で聞いたという「十二箇条の法門」の話は、公衆の面前での出来事ですから、どんな内容だったのか、この際、語り残したらいかがですか。当方は、堀氏が「ダメな法主が相承を受けると、かえって法門が制約される。十二箇条の相承と言っても、多くの法主がその使い方をわからなかった」などと、述べていたことを聞き及んでいます。こうしたことは、お互いに主観的な証言の披露にすぎません。けれども、どちらの証言に真実味があるのかは、後世の聡明な学徒たちが的確に判断するでしょう。あなたと同じく堀氏等から「十二箇条の法門」の話を聞いた人たちが、今も宗の内外にいるのです。もし、あなたが何か証言できるのなら、是非とも行ってみて下さい。
9 日寛の『当家法則文抜書』について
近年、あなた方は、日寛にも法主信仰があった、として前出の『当家法則文抜書』をよく持ち出します。今回の宗務院文書でも、同抜書の中に左京日教の「当代の法主の処に本尊の体有るべきなり」云々との文が記載されていることを再三にわたって紹介し、あたかも日寛が法主信仰を認めていたかのごとく論じています。しかし『当家法則文抜書』は、「抜書」すなわちメモの類であって、何かを主張するために執筆された論書ではありません。たとえ、この抜書が大石寺内で秘蔵され、日寛の謦咳に接した二十九世・日東の「拝見」との文字と署名花押がそこにみられるとしても、日寛自身が後世の宗徒に残そうとした重書とは言えません。日寛は、『六巻抄』については、強い調子で『三重秘伝抄』に「此は是偏に法をして久住せしめんが為なり」、『依義判文抄』にも「此は是偏に広宣流布の為なり」と明記しています。古来、「当家の大事六巻抄」と言われるゆえんです。
その意味で、私はあなたに対し、次の問題提起を行います。「日寛がかねてより抜書きし、心に留めていた『当代の法主の処に本尊の体有るべきなり』との義は、日寛の出世の本懐とも言える再治本の六巻抄の中でまったく採用されなかった。そのことは、日寛が法主信仰を実質的に否定した、という何よりの証拠ではないのか」――と。じつのところ日寛は、法主の内証が本尊の体であると説くこの文が左京日教の作であることを知らず、ただ「当家御法則」として伝承されてきたとの認識しか持ち合わせていませんでした。この文を日教の作と断定したのは近代の堀日亨氏であり、近世の宗門人には知る由もなかったのです。ゆえに日寛が、法主の内証本尊義を説くこの文を、歴代先師の筆と考えていた可能性は大いにあります。にもかかわらず、日寛はこの文を六巻抄の中に一度も引用しませんでした。日寛が六巻抄の中で展開した本尊論や三宝論からすれば、法主の内証本尊義などは、法門の綱格を乱す逸脱義に他なりません。六巻抄に示された三大秘法義のどこに、法主の内証を「本尊の体」とすべし、との教説がありましょうか。三宝論においても、日寛の強調点は『当家三衣抄』の「行者謹んで次第を超越する勿れ」というところにあったと思われます。後世に長く伝えるべき『当流行事抄』や『当家三衣抄』の中では、『三宝抄』にみられる「三宝一体」の義も、完全に排除されています。六巻抄における日寛は、もっぱら三宝の区別を明確化することに力を入れているのです。
私は、どこまでも六巻抄の中に、日寛が最終確定した大石寺の教学があると考えます。そうではない、とあなたが言うのならば、しっかりした論拠を示して下さい。
10 在家僧の認識について
最後にお聞きします。あなたは、自分自身を「出家」であると思いますか、それとも、実際には「在家」である、と認めますか。「出家」とは文字通り、家を出る、という意であり、中村元編『仏教語大辞典』には「家庭の生活から出離して、専心に道の修行を行うこと」などと説明されています。現在、あなた方は「家庭の生活」を送りながら寺院内で僧侶としても活動しており、変則的な「在家僧」の身分という以外にありません。この考え方に同意されますか。
また、在家僧ということであれば、問題は「僧」の意義であります。大石寺門流では、正法正義を伝える人を「僧」と定義するようですが、私の論のごとく、金口相承の法門内容の核心が理論的に開示されている、と仮定した場合、俗世間の人も、僧形の人と同じく法義の核心を学び、伝承できることになります。であれば、現代では、僧形の人も俗形の人も仏道修行に励むかぎり、ともに「在家僧」であるとは言えないでしょうか。あなたは、どこまでも金口相承の法門内容が非公開であるとの立場にこだわるでしょうが、それでは話が平行線に終わるだけで、研究調査上、有益とは思えません。もし大石寺の唯授一人相承が理論的に開示されているとすれば、現代の僧俗をともに在家僧とすべきかどうか、しないならばどこが違うのか、という角度からのみ、ご回答下さい。
さらに、明治以来、大石寺では肉食妻帯し、家庭を持った法主が本尊書写を行ってきました。特にあなたは通常、自分の妻子を出入りさせている大奥内で本尊を書写しています。明治の日応の頃から今日に至るまで、日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきた――こう断定しても、よろしいですか。また、すべての篤信・篤学の僧俗が在家僧と言いうる今の状況にあって、それでも本尊に関する権能を在家法主が占有すべきである、とする論拠がもしあれば、ここで示して下さい。繰り返すようですが、くれぐれも循環論法にならないようにお願いします。
以 上