大石寺日寛の教学にみる相承法門の開示
大石寺日寛の教学にみる相承法門の開示
著者 松岡幹夫
掲載誌 『印度学仏教学研究』第五十四巻第一号
発行日 平成十七年十二月二十日
序
富士大石寺門流は、宗祖の日蓮から大石寺開山の日興へ、日興からさらに日目へ、という様に、日蓮一期の究竟の法体と教義が唯授一人の血脈相承を通じて連綿と歴代の大石寺法主に伝えられてきたと主張する。そして、その法体と教義は当初から厳重に秘匿されて大石寺法主が所持するとし、そのゆえに自宗こそ唯一正統の日蓮門下であると公言している。
さて本稿の目的は、大石寺門流の唯授一人血脈相承の真否を問うことではない。そうではなく、同門流が言う唯授一人の相承法門の核心部分がじつは同寺二十六世の日寛によって公開されている、という事実を指摘するところに意がある。この事実は、大石寺教学の確立者と言われる日寛の教学を、相承法門の開示という観点から読み直すことで明らかになる。
一 金口相承による、三大秘法の体としての本尊に関する教義の継承
大石寺門流の歴代法主だけに伝えられる、とされてきた秘奥の教義とは何か。むろん、筆者自身は相承の当事者ではない。だが、当の歴代法主が書き残した諸文書から推理することはできる。室町期の九世日有は「本尊七箇・一四の大事の口決有之」(「有師談諸聞書」、(堀日亨編『富士宗学要集』[以下『要集』と略す]二巻一六〇頁)と語ったとされ、江戸期の二十二世日俊も「当寺は本尊口決の相承とて、日蓮聖人より興目代々の相伝あり、其の上に岩本開山日源の□□興師随逐して三度の相伝あり本尊七箇の口決あり」(「弁破日要義」、『日蓮正宗歴代法主全書』[以下『歴全』と略す]三巻二四二頁)と記している。これらによると、大石寺の唯授一人血脈相承が伝える秘奥の教義とは、本尊義であることがわかる。
では、この本尊義とはいかなるものか。要言すれば、それは、宗祖日蓮が唱えた「三大秘法」(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)を『法華経』寿量品の文底に秘沈された法体とみなし、その法体の正体を本尊とみなす教義に他ならない。
日有・日要等の談とされる「雑々聞書」には、「日目の耳引法門と云ふ事之有り・本尊の大事なり三箇の秘法なり、其の中には本門の本尊なり」(『要集』第二巻一六三頁)との記述がある。日蓮から日目へ、三大秘法のうちで特に本門の本尊にかかわる教義の相伝があった、との伝承の存在がうかがえる。また日俊は「此三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや」(「初度説法」、『歴全』第三巻一〇三頁)と述べ、三大秘法の「本門の本尊」とは「当寺戒壇の板本尊」である、と明示している。そして二十五世日宥は「其の金口相承も五大部三大秘の本尊の妙意に過ぎず」(「観心本尊抄記」、『歴全』第三巻三六九頁)と記し、唯授一人血脈相承における教義継承面を指す「金口相承」の内容が、祖書の五大部から帰結されるべき「三大秘の本尊の妙意」、つまり三大秘法の正体たる本尊の教義であることを明かしている。日宥は「大上人は三大秘を本尊と為す」(「日蓮の二字沙汰」、『歴全』第三巻四〇四頁)とも述べているが、大石寺の金口相承の法門とは、いわば三大秘法の体としての本尊に関する教義なのである。
二 日寛教学にみる金口相承の理論的開示
とはいえ、同門流が秘守しようとした三大秘法の体としての本尊義は、断片的には早くから宗内に流出していた。例えば、文底下種の法門や日蓮本尊義などは、門流上古の文献にも散見される。しかして江戸期に出現した日寛は、それらの相伝義を、金口相承である三大秘法の体としての本尊義に関連づけて整束し、結果的に大石寺の金口相承を理論的に開示したのである。日寛の時代には、幕府の宗教政策によって布教が制限されたかわりに、日蓮宗各派で教学研究が盛んとなった。日寛も、千葉の細草檀林で長年研学に励み、最後は同檀林の化主に昇進した。そこに加えて、日寛が日興門流の秘書の対外流出に危機感を覚えていたことや、彼以前の大石寺門流が九代にわたって他門(京都要法寺)出身者を法主に立てたこともあり、大石寺独自の、相承法門としての本尊義を理論的に開示する意図が日寛の心に芽生えたのだろう。
ゆえに日寛の教学では、門流独自の文底秘沈、本尊中心の三大秘法義の顕説に最も力が注がれる。「六巻抄」と総称される、彼の代表作の一つに『文底秘沈抄』がある。同抄の冒頭部分では、日蓮が三大秘法の名目を示した『法華取要抄』の文が引用され、当文の意こそ「蓮祖出世の本懐、末法下種の正体にして宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」とも言うべき最奥義であると主張される。続いて日寛は、大石寺門流の「前代の諸師」がこの三大秘法に関する最奥義を「尚顕に之を宣」べなかったとし、自らは「今講次に臨んで遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」と宣言する(『要集』第三巻七〇頁)。かくして同抄の本編では、「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の順に、門流秘奥の三大秘法義が初めて整束的に解説されていった。その過程で「教主釈尊の一大事の秘法とは結要付嘱の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門本尊の御事なり」(『要集』第三巻九三頁)と述べられるなどして、実質的に、金口相承である三大秘法の体としての本尊の義が理論的に開示されたわけである。
我々が注目すべきは、「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」とされる大石寺門流の最奥義について、日寛が「粗大旨を撮りて以て之を示さん」と言い切り、本尊に重点を置いた三大秘法義を構築したことである。五十六世の日応が「別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず」(『弁惑観心抄』大日蓮編集室、一九七一年、二一二頁)と述べたことなどを根拠に、門流究極の教義たる金口相承の内容は永遠に非公開である、と主張する信者もいる。だが、右の日寛の言を尊重するならば、かりに大石寺門流の金口相承である法門や文献がまだ秘されているとしても、日寛の『文底秘沈抄』はすでにその理論的根幹を開示し終えている、との見方が成り立つ。
さらに、ここで特記したいのは、『文底秘沈抄』の本尊篇の最後で「人法体一」の本尊義が論じられていることである。人法体一の本尊論とは、『文底秘沈抄』によれば、事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の法本尊と、久遠元初の自受用報身の再誕・日蓮の人本尊とが一体の関係にあることをいう。
日寛の「本門の本尊」論の帰着点は人法体一の本尊義であり、大石寺門流の金口相承が伝える本尊義の核心と言ってよい。前出の日応は「人法体一の法門は内証の中の内証にして相承の上にあらざれば容易に解すること能はさるべし」(前掲書『弁惑観心抄』一五八頁)と述べている。
ゆえに人法体一の本尊義の開示にあたり、日寛は大変に慎重な姿勢をとっている。例えば、『文底秘沈抄』の法本尊を論ずる箇所に、「問ふ但文底独一本門を以て事の一念三千の本尊と名くる意如何」(『要集』第三巻七六頁)との問いかけがある。これに対する回答は、人法体一の本尊の説明となるはずである。日寛の『三重秘伝抄』によれば、文底の一念三千における「事」とは「人法体一」のことである。ところが『文底秘沈抄』における先の問いに対して示されるのは「答う云云、重て問ふ云云」(同前)であり、日寛は人法体一の説明を拒否している。またこの後、日寛が「若当流の意は事を事に顕す是故に法体本是事なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり」(同前)と主張するくだりがある。ここでまた、「問ふ若爾らば其法体の事とは何ぞ」との再びの問いかけがなされる。が、これに対し、日寛はまたしても「答ふ、未曾て人に向て此の如き事を説かず云云」と回答を拒否し、次の人本尊論へと移っていく。このように『文底秘沈抄』における日寛は、人法体一の本尊という文底の法体の「事」に関して、徹底的に教義的説明を拒否する姿勢を示す。とはいっても、同抄の「本尊篇」では最後に「人法体一の深旨」が諄々と説かれ、ついには「学者応に知るべし久遠元初の自受用身は全く是一念三千なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり、秘すべし秘すべし云云」(『要集』第三巻八八頁)と結論される。つまり、これまでの問いに対する回答は、最終的には示されるわけである。こうした日寛の秘密性と開示性への両面的志向をみるに、人法体一の本尊義は同門流の金口相承における最重要法門であろう、と強く感じられるのである。
結
日寛の教学は、大石寺門流の唯授一人血脈相承の法体法門からみて「部分」「外用」にあたる、とする「日寛教学部分論」「日寛教学外用論」が、現日蓮正宗の宗務院の見解である。しかし、ここでの考証の結論は正反対であり、むしろ「日寛教学根幹論」「日寛教学内証論」なのである。
なお、筆者は研究の進展のため、本稿の内容に関連する質問を作成し、現法主の阿部日顕氏に協力を求めた。参考までに質問のテーマを列示すると、「循環論法の誤謬について」「内証の次元における因分と果分の立て分けについて」「『三宝抄』の三宝一体義について」「法主による本尊の開眼と許可について」「開眼本尊の焼却について」「大石寺の唯授一人相承の永遠性について」「金口相承の内容の未公開について」「十二箇条の法門について」「日寛の『当家法則文抜書』について」「在家僧の認識について」である。
結局、阿部氏本人からの返答はなく、配下の僧侶が作成した文書を受け取った。ただ、それは、筆者を「汝」と呼んで感情的に非難するとともに、「(開眼の)内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである」「日顕上人は血脈の当事者であり、血脈に関する御指南は『説』ではなく、全て『真実』なのである」と述べるなど、およそ護教論に終始するものだった。秘密主義、権威主義をとり、論点先取りの循環論法も多用する阿部氏側の返答書から、大石寺門流を研究する者が何らかの学問的成果を得ることは難しいだろう。新たな史料の提示を期待していただけに残念である。
(東洋哲学研究所研究員 学術博士)