新改革通信 特集「C作戦」検証(9) 令和8年5月25日 創価学会の要望を拒絶し、自ら世界宗教の道を閉じた日顕
新改革通信 特集「C作戦」検証(9)
発行:青年僧侶改革同盟
令和8年5月25日
「僧俗一致して大石寺開創七百年慶祝行事を終えた直後であり、その変更手続きがあまりにも性急で、きわめて異常な措置」
「法主に直接任命された信徒の代表であるその身分を宗規変更手続きに名をかりて、一方的に、しかも即座に喪失させるという今回の措置はきわめて陰湿かつ姑息であり、権威主義的なやり方」
「正規の任免手続きによらず、宗規変更にともなう附則により資格を喪失させるということは、手続的にみても違法・不当なもの」
宗門にやましいことがなければ、宗規変更について事前に学会に告知し、日顕が任命したのであるから、法華講総講頭の地位についても相談するのが普通であろう。しかし、この宗門の進め方は、まず池田名誉会長の排除ありきで遮二無二に進め、正当な理由なく宗規変更を利用して事前の連絡もなく実施するというあるまじき卑劣な奸計であった。
学会はそのような宗門に対して「抗議書」の最後に以下の3項目の要望をしている。
(1) 民主の時代に即応し、世界に開かれた宗門になってほしい
(2) 日蓮大聖人の仏法の本来の精神に則り、権威主義を是正し、信徒蔑視を改めてほしい
(3) 僧侶の堕落を戒め、少欲知足の聖僧という宗風を確立してほしい
この学会の要望は、どこまでも「21世紀をリードする世界宗教にふさわしい内実を整えるため」であって、誰もが納得のいく内容であることは論をまたない。
教条主義的な思考が世界宗教の道を閉じる
いかに、宗門が「世界宗教」の内実はおろか、世界からかけ離れていたか、実例を挙げたい。
宗門の「お尋ね」文書の中に〝学会が「歓喜の歌」をドイツ語で歌うのはキリス ト教の神を称える「外道礼讃」の謗法である〟と書かれていた。これに対して学会は「この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して外道礼讃と決めつけるのは、頑なで狭量な解釈である」と指摘した。すると宗門は「原詩の表現は、ギリシャ神話の神々・エリュージオン(楽園)、旧約聖書の、智天使ケルビム・創造主等々の語句を見ても、外道そのもの」と言い出した。〝キリスト教を称えている〟という論点がいつのまにか〝名曲でも外道の歌を歌うべからず〟というさらに狭量な解釈になっている。
しかし、この「歓喜の歌」の歌詞の本質は、シラーが神話の世界を使って、この世の苦しみを超えた絶対的な「喜び」を表現していることであり、「時流が厳しく分け隔てていたものを再び結び合わせる」と〝分断を結合させる〟ストーリーが描かれていることだ。だからこそ、1989年のベルリンの壁崩壊直後、分断の終焉と統一の喜びを象徴するものとして、この歌が合唱された。
日顕は平成3年1月の教師指導会で「広宣流布したらドイツでも『歓喜の歌』は歌えなくなる」と発言している。日顕らの発言は、日蓮仏法を他宗教や文化の多様性を決して認めない教条主義的な教えと誤解させるものであり、世界宗教の道を自ら閉じているに等しい。
権威主義が信徒蔑視の温床となる
権威主義とは、権力を特定の指導者が独占し、盲目的な服従を強いる体制である。そこでは権威者の指導体系に疑いを持ったり、同意しなかったりすれば反逆とみなされる。宗門では法主は絶対的な立場であり、その法主に意見することは許されない。常識的な提案であっても、日顕は「法主の発言を封じた。憍慢謗法だ」と断じ、学会に告知することなく、池田名誉会長の信徒の代表である身分を即座に喪失させた。この思考・行動様式こそ権威主義であり、信徒蔑視を生む温床となる。
宗祖日蓮大聖人の教えは全ての人に仏性があると説く「法華経」の思想を根幹として、民衆の幸福を第一に考える。「日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」と仰せのごとく、人を敬い軽んじないことが修行の肝心であり、教主釈尊の出世の本懐は「人の振る舞い」と大聖人は断言されている。権威で人を服従させる権威主義とは対極にある。
煩悩に負けて堕落したことを認めた日顕
僧侶の堕落について大聖人は「出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なり」、「遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」と厳しく指弾されている。
当時の日顕ファミリーを中心とした住職たちの遊蕩に耽る姿は御書に説かれる悪僧そのものである。平成2年8月の教師講習会閉講式で日顕は「綱紀自粛」について「その根本は不断の信心と行学」と話しながら、その日のうちに息子夫婦らとともに6人で伊豆長岡へと出かけ、有名な高級旅館に泊まり、一人10万円の特別懐石料理を堪能している。
日顕は平成 6 年 5 月の「全国教師寺族指導会」で「彼ら(学会員)は、ジーッと御供養して信仰やって、坊さんが堕落するのを待ってたんです」と言い放った。この発言は日顕が煩悩に負けて信徒の供養を湯水の如く浪費して堕落したことを認めているものであるが、その責任を自分たちではなく、供養した人々に転嫁している。これは盗人が〝盗みを働いたのは、お金をたくさん持っている被害者のせいだ〟と言うのと同じ理屈であり、全く筋の通らない話である。
学会からの宗門改革の要望は宗門にとって試金石であった
いくら創価学会が世界広宣流布に励んでも、信徒の模範となるべき僧侶が衣の権威を振りかざし、信徒の赤誠の供養で放蕩を繰り返す姿をさらすのであれば、多くの信徒が信仰を失ってしまうだろう。それでは僧侶の存在は広布の進展を妨げる障害でしかない。だからこそ、学会は大聖人の大願である世界広布のため、人々を救うため宗門改革を提言したのである。
今、振り返れば、この学会からの要望は、宗門が僧俗平等の大聖人の教えを受け継ぐのか、それとも一切衆生の平等を否定する僧俗差別の道を選ぶのか、その選択を迫られた重要な分岐点だったと言える。もし、宗門が衣の権威を打ち破ることができていれば、僧俗平等を貫く、世界宗教に相応しい民主化された教団として、生まれ変わっていたかもしれない。
ところが、日顕はこの学会からの要望に耳を傾けることなく、一切の対話を拒否して「C作戦」の遂行に躍起になった。日顕は平成3年に、添書登山から始まり、学会破門、御本尊授与停止という暴挙に出る。破門までの一直線を振り返れば、まさにこの時の提言の拒絶が岐路であったことが明らかになろう。
日顕が如何にして宗内僧侶を巻き込み、日蓮正宗を日顕宗と呼ばれる自浄作用なき教団に変質させていったのか、歴史に残すためにも引き続き、検証する。(続く)