新・改革通信 107号(2011.07.17) 日蓮正宗の”狂信パンフ”。”日蓮正宗に帰依しなければ大震災が起こる”と人々を脅し、法を下げる宗門!
そのような状況の中で「日蓮正宗」は「法華経の大良薬を以て此の大難をば治すべし・悲惨な災害を繰り返さないために・」と題したパンフを作成して配布しているが、その内容は被災者の恐怖をあおり立てる、反社会的なものだ。
「このような災難が二度と起こらないよう、今こそ御本仏大聖人の教えにしたがい、邪宗・謗法を捨てて、南無妙法蓮華経の正法に帰依していくべきです。」
と述べているが、これを読んだ世間の人々は何と思うであろうか。
おそらく、”この宗教に帰依しなければ、また大震災が起こる”と、民衆の恐怖をあおり立てる”恐ろしいカルト的な宗派”と感じるだろう。
たしかに、大聖人は『立正安国論』の中で災害の原因を「世皆正に背き人悉く悪に帰す」と述べられている。
しかし、ここで一番肝心なことは、一体、何が「正」で、何が「悪」なのかということである。そこを明らかにしなければ、かえって、人びとに誤解を与え、大聖人の仏法を下げてしまうことになる。
ところが、大聖人の時代の僧らは、衣の権威を振りかざし、人びとを僧や寺院に依存させる教えを説いて、供養を搾取していた。僧侶が民衆の自立を阻み、権威や恐怖で支配しようしていたのだ。だからこそ、大聖人は「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」と喝破されたのだ。
すなわち、大聖人が示された「正」とは、民衆の自立を説く哲理であり、「悪」とはその逆に民衆を隷属して利用する教えであり、それを説く悪侶である。
そしてその結果、「還つて日蓮を種種の難に合せ」と続いているように、民衆の自立を厭う者たちから迫害されたのだ。
当時の僧らは”僧や寺に供養すれば功徳がある”と説き、民衆を弱い立場に貶めていた。そのような時代の中で、大聖人は”南無妙法蓮華経と唱えれば、誰でも成仏できる”と説いたのである。だから、他宗の僧らは”そんな教えが広まれば、僧や寺に供養する者が減ってしまう”と恐れたのだ。
『法華経勧持品』に出てくる僣聖増上慢の特徴にも「利養に貪著するが故に」「此の諸の比丘等は利養を貪らんが為めの故に」と、供養に執着する悪侶の本質が説かれている。
今の日蓮正宗も全く同じ姿である。例えば、彼らは江戸時代の檀家制度を現代に復活させたように、”僧侶の引導がなければ成仏できない”などと信徒を脅す。彼らは、僧侶を通さないと成仏できないと、常に信徒と本尊の間に立ちはだかろうとする。
彼らが創価学会の「友人葬」を非難するのは、僧侶の仕事を奪われ、供養がなくなることを恐れているからだ。だから、彼らは常に”在家の分際で”と、僧俗差別を説いて、自分たちの権威を守ろうとする。
宗門問題の本質も同じである。日顕は法主の権威で信徒をひれ伏せさせようとし、歯向かう者を容赦なく切り捨てた。
民衆を”ボンクラ”と呼んで蔑み、創価学会の未曾有の広宣流布の運動に感謝することもなく、逆に「ワシが許可をしてやったんだ」と増上慢の暴言を吐いた。
日顕の本質は、まさに”悪しき権威”と”差別”であり、禁じるべき「一凶」なのだ。
今、「法主絶対」を説く宗門の僧侶は、法主を絶対化することにより、自分たちもそこに連なる存在として、衣の権威を作り上げている。すなわち、自分の身を守るために法主を利用しているに過ぎない。
彼らの目的は金銭の供養であり、信徒から供養を搾取するために僧俗差別を説き、権威で抵抗を防いでいる。そういう意味では、日蓮正宗そのものが悪侶の巣窟であり、民衆を苦しめる「一凶」となり果てているのである。(編集部)