新・改革通信 NO.48 (2006.02.15) 日顕の「ついつい言ってしまったけど、できるかな?」

日顕の「ついつい言ってしまったけど、できるかな?」発言
が今も尾を引く日顕宗――御聖誕の日に思う
二月十六日は、御本仏日蓮大聖人御聖誕の日であり、大石寺では例年、宗祖誕生会ならびにお塔開きが行われる。

新法主の早瀬にとっては初めての誕生会であり、お塔開きの際には、早瀬の苦手な”お言葉”も述べなければならない。就任以来、「勤行がヘタ」「字が上手くない」などと並んで早瀬の”お言葉”の評判も散々である。新年の行事でも「貫禄不足」「原稿棒読み」など、しらけた感想ばかりが聞かれた。その他いくつもの法華講員の感想の中でも「遠慮がちにお見受けしました」との感想は、宗門の現状を端的に表しているようで面白い。

厳しい寒さの中、老躯に鞭打って出仕した上にまたもや不慣れな挨拶で評判を下げることになるとは、まさに哀れの極みではある。

それでも日顕のように「地涌倍増」などと出来もしない大風呂敷を広げられたり、「ぱっと目が覚めて教学部長という言葉が口から出た」などのオカルトめいた与太話や「妙の字は、若い女の乱れ髪」などのセクハラ話を聞かされるよりは良いと思っている者も多いのではないだろうか。

さて、日顕が早瀬の”お言葉”にどのような感想を抱くかも含めて、十六日は興味津々である。

本年は、承久四年(貞応元年)の御聖誕より七八四年となる。大聖人は、「日蓮生まれし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(御書一五五八㌻)との仰せの通り、忍難弘通の道を断固と歩まれ、後世に広宣流布の大願成就を託し置かれた。

まさかその後世に法主を詐称し、二十六年間もその座を汚すものが現れ、一閻浮提百九十ヶ国に弘通する団体を破門するなど、まさに「題目を弘めん」との御本仏の御精神を踏みにじる天魔の所業以外何ものでもない。その上、自分で、大聖人の「御命」とまで言い放った「信者倍増」について、後になって「ついつい言ってしまったけど、できるかな?」などといい加減さを顕にする姿に、大聖人御生誕の日を寿ぐ資格などないことは明らかである。

一日も早く仏法破壊の日顕を除歴しない限り、宗祖誕生会を行っても「やいとの還って悪瘡となるが如く、薬の還って毒となるが如し」と仰せの通りになることは疑いがない。

「閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」の御金言を誰が実践し現実のものにしたのか、明々白々である。(政)

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