新改革通信 「宗門問題を理解するために」(8)令和5年8月10日

新改革通信

「宗門問題を理解するために」(8)


戦後78年─謝罪・行動なき宗門に仏教教団を名乗る資格なし

昨年8月に、「宗門問題を理解するために」の第7回で、日蓮正宗の「戦争責任」について解説しました。戦時中、仏教の各宗派は先を争って戦争を唱道し、日蓮正宗も金銭の寄付、梵鐘・仏具の供出、軍用機の献金を行い、戦争への参加が宗祖の教えに沿うものであると説いていました。今回は、なぜ戦争責任を認めて謝罪することが重要なのか、解説します。

1.戦争責任を認めることは、平和への責任を自覚すること

戦後2年目に日本宗教連盟、仏教連合会、日本キリスト教連合会、神社本庁、宗教文化協会が共催した「全日本宗教平和会議」が「懺悔の表明」をしました。そこには以下のような文が並びます。

「軍国主義的風潮を阻止することができず、悲惨なる今次戦争の渦中に巻きこまれたことは、神佛に対し、祖国に対し、かつは世界の全人類に対し、慚愧に堪えないところである」
「身命を賭しても、平和護持の運動を起し、宗教の本領発揮に務むべきであった」

戦争責任を認めるということは、仏弟子として生命の尊厳を説き、平和を築く責任があるということを自覚しているということです。ゆえに軍部の圧力に屈したことに恥じ入り、後悔の念に苛まれるのです。戦争責任を認めないという態度を取り続ける日蓮正宗は仏弟子としての自覚はなく、平和への責任を放棄しているということです。

2.謝罪・行動無き宗門に仏教教団を名乗る資格はない

宗門は『日蓮正宗と戦争責任』(平成3年)において以下のように述べています。

「戦後において、日蓮正宗の僧侶から戦争責任に関する、反省の意見が、これといってないように思えるかもしれない。しかし、現御法主日顕上人猊下は、日蓮正宗の勤行の根本である『丑寅勤行』において、毎日、世界平和を御祈念あそばされておられるのである」

戦争責任はないと言い張りながら、「反省の意見が、これといってないように思えるかもしれない。しかし・・・」と言い訳していますが、「平和護持」への行動をせずに、〝法主が祈念しているから十分である〟という言い分が社会的に通用するはずがありません。ここに宗門の独善的・閉鎖的な体質が現れています。“責任があったとしても認めるつもりはない”ということです。
多くの信徒を戦争の犠牲にしておきながら、信徒には絶対に頭を下げない〟─これが彼らの本音です。彼らにとって、信徒の戦禍の苦しみは他人事でしかないのです。そのような宗門に仏教教団を名乗る資格などないでしょう。

3.戦争責任は認めないが、布教のために謝罪しろと指導する宗門の欺瞞性

平成15年8月22日に総本山で行われた「全国教師講習会」で当時、海外部長であった尾林氏(故人)が、反日感情があるアジアへの布教に関して次のように述べています。

「そういう国に赴任して布教する場合は、やはり過去のことを懺悔し、そしてまた、そういう国の人々の痛みを理解し、分かち合うという認識をもった上から、日蓮正宗僧侶としての教導を図っていくということを、どうしても考えていかなければならない・・・」(『大日蓮』平成15年10月号)

教団として戦争荷担の罪は認めないにもかかわらず、布教のために懺悔をするというのは、懺悔をしている〝ふりをしている〟にすぎません。
アジアで創価学会が評価されている大きな要因は、軍部に反対して獄中で亡くなられた牧口初代会長の存在です。牧口先生の尊い殉教が日本軍の侵略を受けたアジア諸国において、創価学会が信頼される理由となっているのです。信徒差別を唱えている彼らがアジアの人々の苦しみを理解できるはずなどありません。牧口先生を切り捨てた宗門が戦争責任の謝罪もせずにアジアに布教することは許されないのです。

4.仏教界で進む〝戦争責任問題を後世に伝えていく〟取り組みに背を向ける日蓮正宗

近年、仏教界では、戦争責任問題をどのように後世に伝えていくか、考察が進んでいます。また、宗派の戦争荷担の資料が発見されると、それを隠すことなく公表しています。
2019年から戦時資料の提供を宗内へ呼び掛けて現地調査や研究を進めてきた浄土宗平和協会が『浄土宗「戦時資料」に関する報告書』を完成させ、7月12日に公表しました。報告書では、天皇を阿弥陀仏と同一であるかのように示す教説によって、浄土宗が戦争協力を進めていたことが述べられています。廣瀬卓爾・同協会理事長は浄土宗の戦争協力について「時代の流れであり、『やむを得なかった』という総括はできない」と強調しています。
日蓮正宗は日恭法主が「訓諭」を発し、〝宗祖日蓮大聖人の遺訓に基づいて信行を奮い、大戦に必勝を期せ〟と宗内僧俗を戦争に駆り立てました。宗門はその事実を無視して「日蓮正宗の戦争加担は、国民一般の感覚以上に突出していたとはいえない」というのです。この言い逃れがいかに見苦しいものであるか、宗内僧侶はあらためて恥じるべきでしょう。

本年は、牧口先生と戸田先生が不敬罪と治安維持法の容疑で軍部に不当逮捕されて満80年です。当時、宗門は自分たちに累が及ぶことを恐れ、牧口先生、戸田先生を信徒除名の処分にしました。それだけではなく、宗門は拘留中の牧口先生の家族に対して、牧口先生に退転を促すように説得を試みていたのです。保身に汲々とする、あまりにも見苦しい姿です。
宗門に根付いている「一凶」は民衆を軽賤する慢心です。私たちは、その宗門の「一凶」を禁じるためにも、これからもあきらめずに宗内僧俗に〝戦争責任と向き合う〟ことを訴えて参ります。(以上)

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