日蓮正宗問題研究2 – 『C作戦』の真相・底流
(7)学会反逆者との結託も

 こうして日顕法主は、学会破壊の謀略を実行していったのですが、法主が対学会戦略を練り上げるにあたっては、学会反逆者たちの暗躍があったと言われています。日顕法主は、それらの人間に、時には自ら電話をかけ、面会したりして、頻繁に連携を取り、学会組織の破壊に役立てようと画策したのであります。

 龍年光(元公明党都議)、福島源次郎(元学会副会長)らが日顕法主の学会攻撃に手を貸していると目されていますが、いずれも、自分が学会内で以前ほど用いられなくなったことに腹を立て、復権を夢みて日顕法主と野合した連中であるといえましょう。

 なかでもとくに龍は、創価学会の「法定解散」という、全く非現実的な策を宗門に吹き込んだ張本人です。それを鵜呑みにした日顕法主の指示のもと、法華講員を使って署名活動を行わせ、平成4年4月2日に、東京都に創価学会法定解散要望書を提出しましたが、案の定、都からは即座に“門前払い”同様の扱いを受けてしまいました。更に龍は、この署名運動を推進するために、『有徳王』という名の雑誌を、龍が理事長を務める「財団法人 土と人間の蘇生の会」から配布しましたが、日顕法主はその『有徳王』という題字の揮毫までして力を入れたのです。しかし、この雑誌も、財団法人の設立の目的を逸脱するものだとして、東京都から回収を命じられる羽目になっています。

 このように龍の画策といっても、まことにお粗末なものですが、創価学会法定解散要望書が都に提出された後には、日顕法主が住職である大石寺から龍に一千万円もの大金が振り込まれたという事実も発覚しているのです。


山崎正友氏に「謝罪」の伝言

 また日顕法主は、山崎正友(元弁護士、創価学会恐喝の罪で収監されていたが本年4月27日に仮出所している)に対し、一昨年の問題勃発直後の1月5日、側近の僧侶の福田毅道を通じて、「あの時はウソツキと言って悪かった。勘弁して下さい」と“謝罪伝言”を託し、和解を、申し入れたことも報じられています。

 山崎正友氏については、十数年前の「第一次宗門問題」を引き起こした影の黒幕であり、当時、事態を収拾しようとした日顕法主を徹底的に攻撃し、『週刊文春』などに日顕法主批判手記を執筆。揚げ句には、日顕法主には、本宗の根本である唯受一人の血脈(一人から一人へと、歴代法主、に法が伝えられること)がなかった、とまで言い出し、日顕法主とは、いわば「不倶戴天の敵」の関係にあった人物です。

 当時、日顕法主は山崎を「大ウソツキ」「何回地獄に落ちても足りない人物」とこき下ろし、両者の関係は第三者から見て、修復不可能な状態にありました。その法主が、謝罪したというのです。

 目的のためには手段を選ばず――。日顕法主の行いは、僧侶の立場から完全に外れた邪道であり、今回の問題の真相が、法主の謀略に他ならないことの有力な傍証といえましょう。試みに、当時の山崎の日顕法主批判の手記から、一部を拾ってみました。彼が、いかに苛烈な法主批判をしていたか、お分かり頂けると思います。

■山崎正友氏の手記(『週刊文春』昭和56年2月12日号)

 日顕みずからが、若い頃より知らぬ人のない遊とう児であった。強姦罪を犯して破門となった僧侶がいわく、

「俺も、あの人とは親友でたいていの遊びは俺が教えたが、女遊びだけは、生まれつき、あいつの方が上手だった」

 同門の僧侶いわく、

「日開上人(日顕の父)が亡くなったとき、日顕は、吉原にいつづけをしていた。吉原から帰ってみると、親父の上人が死んでいて、大さわぎだった。」
「熱海に愛人が出来て、女房と離婚していっしょになるとさわいだことがあった。止める母親の尼に“くたばれ”と乱暴を働き、たまりかねて、尼は何カ月も家出をしていた。」
「金がなくなると、先輩の寺に朝早く来て、門前で無心して行った。はなれたところの電柱のかげで、女がかくれて待っていたよ」
「この愛人のことは、最近まで“良い女だった”とおしそうにいっている」
「京都の平安寺にいる間も、神戸の福原、大阪のミナミのピンクサロン、生駒の岡場所などへ毎日のようにくりこんでいた。弟子と同じ女をあいてにしたこともある」
「地方に法要に出たあと、夜は必ず遊びに出るので、女房が心配でたまらず、法主になったあとは、必ず同行するようにしている」

 いずれも同輩、友人であった僧侶の話である。日顕の私生活はゼニゲバであり、遊興以外の何ものでもない。